2025年12月31日水曜日

羅列(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




暮れも差し迫り
あと4時間ばかしで新年です。

スピリチュアル関係が
お好きな方々からすると、

「来年はこんな年になる」
「こういう事が起きるでしょう」

みたいな台詞を
期待されているかも知れませんが、

ここを見ていても
そんな台詞は一切出て来ませんから
ご安心下さい。

来年に何があるかなんて
世間的な範囲でだろうが
個人的な範囲であろうが、
ぶっちゃけどうでもいいです。

そういうのを考える事自体が
間違っているのですから。

大切なのは、
何が起きても生きる事。

生きる為に何をすれば良いのか。
生きる為のスキルを身に付けること。

そもそも論で、
どんな規模の出来事であろうとも
起こるべくして起こります。

理由はどうあれ、
起こるべくして起きるのです。




また、嫌な事がありませんようにと
安直に願い縋る人が多いですが、

嫌な事が起きないと
次のステップへは進めない
と、いうのが現実ですからね。

善い事ばかりを簡単に願う。
どんな善いこともね、
「生きる」という事に比べたら
とても小さい事なのですよ。

糞味噌な善い事を願うのも
自身にとって都合の悪い事を
全て悪しき事として避けたいのも

どちらも出処は自分本位であり
俗欲、つまり念そのものです。

そういう風にしているから
何処まで行っても満たされない。

そんなだから、
また翌年も同じ様な事を願い媚ながら
クソッタレな時間を過ごす羽目になる。

この寂れた羅列、
この負の螺旋から抜け出る為には

「何のため」
「誰のため」
「相手のため」
「周りのため」

と、いうのを常に思考し行動する
業(おこない)を重ねていくしかないのです。

大晦日というのは
1年最後の日でもありますが、
新年へ繋がる日でもあります。

来るべき新たな年へ向けて
志を強く、器を大きくさせる様に
今一度改めて
自身へ問いかけてみましょうね。

簡便安易な願いを秘めたり
見てくれ重視な優しさを出すよりも

相手の機微をしっかりと受け止められる。

そういう器量の広さを持てる様に
来年も努力をしていきましょう。

暮れぐらい
黙っていろと
思うかもだけどね
暮れだからこそ
こういう話が
出来ないと
いけないんだよ

2025年12月29日月曜日

新年へ向けて(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




まもなく今年も終わろうとしています。

皆さんにとっての2025年は
どんな一年でしたか。

様々な考えや想いが詰まった
365日であり
8760時間だったと思いますし、

一瞬一瞬を大切にして
過ごす事が出来ましたか。

無理をせずに頑張り、
明るく愉しく元気よく日々を過ごす。

至極当然の様に聴こえますが、
決して当たり前ではない日々。
そんな中を過ごしてきて
思い返す事はどれだけありましたか。

僕はというと
ブログに関する事で言えば、
去年の今時分に一つの目標を定めて
1年間ここを書いて来ました。

「一ヶ月に最低10投稿」

非常に地味ですが、
僕にとってはハードな目標でした。




内容のクオリティを下げる事無く
投稿数を増やせるか。
どこまでも「皆さんのために」を
意識して貫いて書き綴る事が出来るか。

過去3年間どうしても途中途中で
投稿数を減らしてしまう月があったり、
安定的でない部分が多かったので

それを打破させるための
自分に課した目標設定でもありました。

結果として
12ヶ月通じて目標は無事完遂。

完走しきった達成感と
自戒すべき点を得たので、
今後に繋げるべきある種の
可能性を見出す事も出来ました。

どこまでもひっそりとした
地道な努力ではありましたが、

そこから得られる重要性を
改めて肌身で感じた1年でありました。

いちいち宣言はしなくとも
どんなに地味であろうとも
不断の努力が成す形というのが
必ず存在するものです。

来るべき新しい1年へ向けて
皆さんは一体何を想い、
何を形とするべく努力を
日々の業を定めていきますか。

場面や場所や時間
という時空を
しっかりと意識して
1つに限らず
目標を定める
上手く出来ても
出来なくても
やり抜く努力が
大切なんやで

2025年12月24日水曜日

運気の維持の必須条件(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




この現世には色んな人が居ます。

同じ国で同じ地域で、
同じ言葉を使って
同じ様な仕事をしていたり
同じ様な環境に置かれていても

皆それぞれ全てが違っており、

基本的には共感も共有も
何もかもが出来ないというのが
この現世なのですね。

そういったバラバラな存在である
我々を繋ぎ留めているのが、

社会通念や一般常識といった
規範や文化などです。

ですが、
それは表立っているだけのもので
これらのみですと人というのを

この厳しい現実の中で繋ぎ留めたり
人同士での共感を得たりするのは、
非常に困難なものとなります。

実際に、社会通念や一般常識には
個々人に於ける

「性格」や「認識」「理解」

というのは、
反映されませんからね。

では、
人同士を実際に繋ぎ留めているのは
何なのでしょうか。

それが「想い」や「念」といった
想念となります。




想いを使う人は想いを使う人と
念を纏う人は念を纏う人と

類は友を呼んだり
同じ穴の狢であったり

言い方は様々ですが、
同じ類という部分での想念が
個々人を繋ぎ留めているのですね。

そこには
表面上のみの思い遣りもあれば
卑屈な意地汚さもあります。

然しながら、
本当の繋がりというのは
この二種ではないのです。

これではどちらも念であり
本当の想いとは言えないのですね。

では、何をどうすれば良いのか。

実際に大切になってくるのは、
想念への理解力です。

想いも念も理解する。
その為に努力をする事が出来る、
相手との違いを理解する事が出来る力。

規範や文化を上手く利用しつつ、
他者との
コンセンサス(一致)を求めるのではなく
置かれている
コンテクスト(状況・背景)を理解する。
その為に自身の基準で
カテゴライズ(選別)をしない。

多数協調性を保持はしつつも
個別による共感の困難さを知る。

こうして生まれるのが
想いにも念にも偏らない
フラットに矛盾を理解し使える
ニュートラルな第三の選択肢である

「想念を理解する人」となります。

想念を理解する人は想念を理解する人と
繋がる事が可能です。

本当の思い遣りというのは、
ここから生じます。

言葉の上だけでの「思い遣り」に
うんざりしている人というのは、
ここへの架け橋が掛けられている状態です。

個別の正義を
貫くのではなく
個別の違いを
認めるんやで
貴方の正義も
対岸から見れば
悪と成り得ます

2025年12月21日日曜日

Nが目覚めた(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




誰にでもの話ですが、

「善い自分」
「駄目な自分」

を持ち合わせています。
これは単純な
長所短所の分類ではなくて

自分の中に存在する

想い基軸を中心とした部分
念基軸を中心とした部分

これらの俗称の様なもので、
切っても切れない関係性のものです。

この善い自分と駄目な自分を
上手く制御する事が
運気の向上と維持には不可欠です。

ですが、人とは面白いもので
善い自分や駄目な自分と
聞いてしまうと、

どうしても善い方を優先的に捉えたり
慮る様な行動を執り始めます。

ここがまた一つの落とし穴なのですね。




どうして善い自分を優先的にするのか。
そこを思慮しないといけません。

善い自分ばかりを
前面に押し出そうとするのは、
駄目な自分を隠したり
自分自身からも見えなくさせるため

と、いう様な
言い換えをする事も出来ます。

そして、そういった時の自分は
果たして想い基軸なのか念基軸なのか。

善い自分を出していたとしても
それを蹶起させた部分は
(駄目な自分を)見せたくないとか
見たくないという「俗欲」なのですね。

という事は、
善い自分を出しているつもりが

念基軸の状態となりますから、
これの中身は駄目な自分に他ならないのです。

善い自分と駄目な自分
想い基軸と念基軸というのは、
常に表裏一体の相互関係にあります。

その上で、どちらにも化けるという
擬態性も持ち合わせています。
物凄くステルス性が高いのですね。




こういった特性があるので、
善い自分ばかりを前面に出していても
良くなどならないし寧ろ、
悪化する理由がここにあるのですね。

重要なのは両方に目を向けること。
善い自分も駄目な自分も
どちらも自分という事を理解する事。

善い自分に偏らせたところで
それは利己的思考に基く動きでであり
念基軸を礎とするものですから、
業にはならないのです。

一方的な御利益を求めて
お参りに行くようなものと同じです。
神さん仏さんはそれら念基軸を無視しますが
悪霊生霊は喜んで寄ってきます。

大切なのは
常に「ニュートラル」であること。

善い自分を押し出すのでもなく
駄目な自分を抑えるのでもない

フラットに視ながら
どちらも制御して動かす。
ニュートラルを意識した動きをすると
自然とこの動きが出来る様になります。

この捉え方が日頃の業に繋がっていくのです。

「Nに目覚めろ」

時には駄目な自分を
意図的に
出してあげる事も
運気の向上と
維持には
必要なんやで

2025年12月20日土曜日

自己優先の落とし穴(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自分を優先させて考えたり
動いたりする。
本来のスピリチュアルで云うところの
自分本位の事を指しますが、

この自己優先というのは
非常に分かり難い
落とし穴を生じさせます。

どの様な落とし穴かと言うと、

「自分では気付けなくなる」

と、いうポイントです。

通常、何かをしている時や
自分の考えや動きというのは
一定の間隔でチェックをしています。

自身の状態や
何をしているのか
何を考えているのか
これで良いのか悪いのかなど

事ある毎に実はチェックを
しているのが我々なのですね。

ましてや、こうして
本来のスピリチュアルに触れていると
余計にその点を意識する様になります。

然しながら、
そんな状態であったとしても
自己を優先させる状態や
状況が続いてくると、
段々とチェックをしなくなるのです。

と、言いますか、
反作用的な思考が増えてきます。

簡単に云うなら

「言い訳」や
「DD(でも・だって)」

の、多用や乱発です。

この二つが明確に増えてくるタイミングが
1つの指標となります。
セルフチェックが薄れてくる
ボーダーラインです。

これだけの説明ですと
意外と分かり易い感じに思えますが、
実際は非常に分かり難いです。

何故か。




ここで云う「言い訳」というのは、
周りからの指摘に対する言い訳も
含みますが、

自身の考えや動きに対する
言い訳の方が多くなるからです。

どういう事かと言うと。

通常の言い訳は整合性の無い反論
とも取れる内容なので、
凄く分かり易いです。

しかし、
この自身に対する言い訳というのは、
整合性が無いのではなく

逆に「ある」のですね。

ポジティブな思考や行動と
捉える事が出来てしまう内容なのです。

つまり、まともなのです。

では、
どうしてそれが言い訳となるのか。
答え自体は簡単でして、

「目的に沿っているか否か」

なのですね。

目的に遵じている内容であれば
それは言い訳とはなりません。

ですが、どんなに善い内容だとしても
目的を逸脱しているならば
それは言い訳となってしまいます。




ここのボーダーラインの判別が
非常に難しいのです。

言葉で例えるなら、
「無理をする」のと「頑張る」の
違いを適確に明示する感じです。

ここの中心核にあるのが

「目的」です。

目的を忘れなければこの線引きは
簡単なものとなります。

けれども、それは平時の話。

実際に思考し動くとなると、
そこには結果と言う名の見た目と
それに伴う新たな努力という
前向きな思考が発生します。

その前向きな思考や行動は
決して悪いモノではないですが、
意識下より目的を忘失してしまうと
途端に俗欲へと変貌します。

この自身内での駆け引きが
知らぬ間に自分本位へと繋がっていく。

例え努力であったとしても、
「何のために誰のために」
という目的を失えば
それは自分本位でしかないのです。

そうなってくると
自分自身で戻るのは困難になります。

真面目な性格で、前向きな思考の人ほど
陥り易い落とし穴です。
なので、貴方が考え動く際には
常に覚えて確認をしましょう。

「この行動の目的は何だ」と。

驚く程に
人の声に耳を
傾けなくなるのが
ボーダー越えの
恐ろしさなんやで

2025年12月15日月曜日

よろこびに気付く(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




巷で囁かれている「気付き」が、
非常に現実離れしている
まやかしだというのは、
既に周知の事実です。

気付きというのは、
言うは易く行うは難しを
地で行く様な業ですから、

とても簡単とは言い難い内容です。

けれども、
誰でも出来るしいつでも出来る。

そのポイントポイントに
視点を当てられるか。
自分を中心としたスフィアの中で
如何に感度を向上させられるか。

ミクロだけでなく
マクロの部分も含むし、

目に写る部分だけでなく
視えない部分も含むし、

自分がそこに居なくても
時間と空間を越えた場にも
気付くべき点は含まれる。

そんな超高度で高難度な業が
本来のスピリチュアルで
教えている気付きですね。




高難度の業になればなるほど、
普段気に掛けない身近な点について
目を向けないとなりません。

その一つが「よろこび」です。

身近な場所には
色んな「よろこび」があります。

動けるよろこび
話せるよろこび
触れるよろこび
信じるよろこび

こういった「よろこび」は
どこにでもありますし
誰だって体験していますし

今この瞬間にだって起きている。

言われれば「あぁ...」とは、なるけれど
言われたところで
実感は全く湧かない。

気付かないどころか、
当たり前過ぎてその価値すらをも
スルーしていますよね。

ここに自動で気付く時というのは、
その真逆の状態となった時です。

動けなくなった時
話せなくなった時
触れられなくなった時
信じられなくなった時

病気や怪我や五体不満足等の
極端な状況や状態を
想像する必要はありません。

寧ろ、
それを想像すると分からなくなるし
思考停止に陥ります。




そうではなくて、
身近な事なのだから
想像も身近な事でないといけません。

例えば、加齢や軽い捻挫とかでも
普段よりも動けなくはなりますよね。

話していた相手が遠くへ行けば
話せなくなりますよね。

触れ得る相手が居なくなれば
触れられないですし、
自身が信じるのを辞めれば
信じられる事も同時に無くなります。

こういう事は、今この瞬間にも
唐突に起こりえる状況です。

つまり、貴方の中にある当たり前は
全く以て当たり前ではなく
今この瞬間に、たまたま

「出来ているだけ」

と、いう状態なのです。

本当はガラス細工の如き壊れ易さなのに
意識もせずに無条件でやれてしまうから、
そこの価値やよろこびをも無視をしてしまう。

貴方が「無視」をしている時に
一体「何を」優先させているのかを考えれば
この気付きの大切さや意味が分かるのですよ。

さて、何を優先させているのでしょうね。

分からなかったら
聞けばええし
分かったとしても
聞かない内は仮説やで
聞くのが面倒ならば
貴方にとっては
その程度の話って事や

2025年12月13日土曜日

頑張れる人、頑張れない人(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




「頑張れる人」と「頑張れない人」

と、いうのがあります。
読んで字の如くとはなるのですが、
少々内容が深いです。

ここで示す
頑張れる頑張れないと云うのは
努力の形を意味します。

例えば、

頑張れる人というのは、
自身で思考して努力を出来る人。

このタイプの人は、
周りが黙っていても自身を奮い立たせて
様々な形で努力をする事が出来ます。

また、必ずではないにしても
自身の責任というのを理解しているので
潔さも持ち合わせています。

但し、
努力する方向が間違っていたとしても
猛進邁進するという特徴も存在しますので、

簡単に自己の意見を変えられない等の
頑固さが強く出たり、

慎重になり過ぎるが故に、
先行した動きや新たな思考に適用する為の
時間を多分に要する悪癖や

責任感の高さから発生する
心的ストレスを負い易いといった面も多いです。

現実的思考が中心となり
幻想を好み、決して嫌いではないが
現実というものを理解出来るので
幻想へは逃げない考え方を持ちます。




頑張れない人というのは、
他者の指示や思考に則った形での
努力が出来る人。

このタイプの人は、
他者からの引立てや圧力を得る事によって
一定の努力をする事が出来ます。

1つの目標や目的、
大衆意識に則った思惑などに対しては
漫然と突き進んでいける様な力があり、
自己意識を抑えているので
柔軟性は高いのですが、

その高すぎる柔軟性の結果
周りの意見に迎合は出来ても
自己の意見をそもそも持てなかったり、

変更の判断や意思決定が自前で出来ない等
必ず他者の指示や意見、

物や見えない存在の力に頼ろうとする様な
風見鶏的思考の特徴が強く出ます。

また、
自己意思が希薄であるが故に
責任感への理解や慎重さを軽視してしまう
という傾向が強く、

それまで頼っていた存在ですら
容易に捨ててしまうので、言い訳をしたり
人や物の所為にする癖が顕著に出ます。

理想的思考が中心となり
幻想を好み得ています。
現実は理解する事が出来ますが、
綺麗事や幻想へ逃げ易くなります。




頑張れる人、頑張れない人という
思考回路の造りを
大枠で説明するとこうなります。

また、同じ人だとしても
部分部分や場面場面によって
両方の特徴が入れ替わる事もありますが、
軸的な部分は概ね固定化されています。

あくまでも思考回路の造りですので
善悪の判断をここでする事は
不可能となります。

また、性格についても同様で、
ここからの反映は確かに存在しますが

どちらかと云うと
当人が在する環境やそれまでの人生経験や
輪廻の回数、霊格の高さなどの方が
色濃く影響を与えるものなので、

やはり、
ここのみで判断するのは不可能と考えます。

然しながら、
個々人に対する運気の向上や
維持という観点については、

対象を見極めなくてはならない箇所となります。

本来のスピリチュアルに於いて
運気とは自身で創り上げるものです。
その維持もまた同様ですね。

自身の考え方や動き方と相反する対象と
動を一にしていれば、不必要な齟齬や
永遠の不理解や不共感が発生し、

負の螺旋への動きへと繋がり易くなります。

ですので、適切な距離を得る為に
自身も含めたこのポイントを抑えて
見極めていく必要があるのです。

違いを知って
適正距離を作る
全てが同一の
距離感には
ならない事も
また事実なんやで

2025年12月10日水曜日

思い悩みの論理点(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




生活の中で、
おいそれとは口にしないけれども
縷々様々な悩みを
抱えている人は多いです。

僕がよく聴く悩みの中で
上位に位置しているのが
身内の問題です。

「いびり」とか
「たかり」とか
「嫁姑」とか
「謂れなき難癖」とか

身内だからこそ起きやすく、
身内だからこそ対処に困る。

ご家族に相談をしてみても
話が平行線で終わる事など当たり前ですし、

自分は何も悪くないのに
気が付いたら悪の権化みたいな扱いに
なってしまう事もあります。

これが、職場とかであれば
辞めるとか辞めさせるみたいな
パワープレイが可能なのですが、

身内の場合というのは
そう簡単には辞められません。

ましてや、身内であるが故に
時間も何も関係無しに
どこまでも責め立てられてしまう。

そんな中、この手の問題を
一般論で解決しようとすると
必ず出てくる綺麗事が

「普通にしていれば大丈夫」
「すぐに飽きるから平気」
「正しい人が最後は勝つから我慢」

みたいな台詞です。




ハッキリ言いますが、
そんなやり方で解決なんか出来ないですし

四六時中責め立てられている様な
理不尽がまかり通っている中で、
普通にしていて解決なんかする訳ないと

少し考えれば分かる事なのですね。

虐められている人に対して、
「黙っていれば良い」と
言っているのと同じ愚行です。

言い換えれば、虐めている人の方の
肩を持つという事です。

そんなの筋が通らないでしょ。

そうこうしている内に、
責め立てられている人は
何かしらの異常を来して肉体的な疾病を患い、
その後確実にメンタル崩壊しますよ。

それだけは絶対に避けないといけないです。
参考までにですが、お肌に異常が出始めたら
それはメンタルの黄信号ですからね。

どんな場所にも貧乏神は存在します。
身内他人の別を問わずに存在します。

特に身内に存在する場合は、
先述した通り、他人の場合よりも
逃げ場が圧倒的に少ないのですから

「(日常的な)心の拠り所」と
「気持ちの吐き出し」と
「論理的に捉えた修整」というのが

常設的に必須となってくるのです。




拠り所と吐き出しというのは
何となく分かると思いますが、
「論理的に捉えた修整」というのは
イマイチ理解が難しいと思います。

これは何かと云うと、

どんな物事でも理不尽でも
必ず自分にも原因があるというのを

客観的に教えてもらってしっかりと理解をする

と、いう流れの総称です。
人は皆同じではなくて、皆違うのです。
貴方の基準が他者の基準とは
成り得ないのと同様に、

他者の基準が貴方の基準にも成り得ない。

貴方が善しとする事であっても
他者からすれば悪にも成り得る。

僕もこれが原因で
過去に虐めやハラスメントを経験しています。

そこの違いを論理的に理解する為に、
苦しんでいる御本人の過度な被害者意識や
綺麗事などを失くさせる。

これが修整です。

この一連の動きを身内の人が客観的に
行う事も不可能ではないですが、
大抵の場合は利害関係が生じてくるから
経験のある第三者でないと中々に難しい。

そして、この「論理的に捉えた修整」は
相手を許す為に行うのではありません。
徹底抗戦をする為に行うのです。

世の中はね、そんなに優しくないのですよ。
弱い奴を見れば叩きたくなるし、
弱気になればあっという間に潰される。

綺麗事もクソも無い状況に陥ってるのに
そんな悠長な事なんかしてられないでしょ。

貴方に何かがあったら、
困るのはお子さんやご家族なのですから。

現実で生きている以上は現実をちゃんと視て、
現実的な動きをする為の
実戦型アドバイスをするのが
本来のスピリチュアルです。

本当に助かりたいのであれば、
生温い一般論なんか
クソ喰らえってやつですよ。

理不尽かます奴に
まともな理屈は
通用せぇへん
知恵知識五感
あらゆるものを
総動員して覚悟決めての
総力戦やで

2025年12月8日月曜日

生き易さとご都合主義(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




生き易さというのは
自分自身にとって都合よく動いたり
何かを都合よく動かす様なものではなく、

生きる苦しみというのを
理解する必要があります。

生きる苦しみ...

本来のスピリチュアルでは
意思の疎通と
そこに至るまでの流れそのものが

最も身近で最も大きい苦しみだと
都度話していますね。

相手に意思を伝える。
相手の意思を汲み取る。

思っている事、考えている事、
今の心情や抱えている気持ちなど、

言葉を介しているにも関わらず
意思そのままの100%を
伝え汲み取る事が難しい。

何度言っても分からない事もあれば、
分かったと思っていて
何も分かっていないなど、

肉体を得ているが故の
個々体に存する俗欲の固着が
いとも簡単に意思の伝達を阻害する。

そんな馬鹿なと思うのであれば
貴方の思っている事を
抱えている心情を

今その隣に居る相手へ
ネットワークの先に居る相手へ

伝えてみて下さい。
確実にその意思を伝えるのって
かなりの労苦を要する筈です。






この伝に務める苦しみを
相手と共感する事が生き易さには
必須な要素となってきます。

その苦しみの中で、
例え微々たる部分であっても
伝え汲み取る事が出来たり
出来てくるようになると、

相手との共感という形で
「想い」が形を成してきます。

これが基本的な「愉しみ」です。

これを分かち合う事こそが
生き易さへと繋がるのですね。

にも関わらず、
途中途中にある意思を伝える苦しみ

意思を汲み取る労苦から逃れ得たいと
楽に溺れるあまり、

自身にとって都合の良い解釈や
都合の良い言葉
都合の良い思考を選定して

相手を差し置いて行動をしてしまう。
ここで述べてる"楽"とは
"俗欲"を意味します。

これがご都合主義です。




眼の前にある現実から目を背け、
伝えられるという点に於いての
信に徹さない動き方がご都合主義。

この場合、その場凌ぎでの対応は
可能だったとしても、
その後に必ずリバウンドが生じます。

「伝わらない」「分からない」という
苦しみから逃れたいが為の妄言は
一時的な労苦からの解放は得られても

「相手のため」という触媒、
愉しみを得る為の華美なエッセンスを
消失してしまっており、

「全ては自分のため」という
禍愚な意思の下での動きですから、

そこには「想い」よりも
「念」が湧出するので

「恨み」となって
自身へと還元される訳です。

「想いを拠出し想いを得る」

この流れの中にあるのが
生き易さとなりますから

「念を排出し念が還る」という
負の螺旋に陥ってしまうご都合主義が
如何に生き易さと掛け離れているか

想像するのは容易い事だと思います。

それでもやってしまうのが
ご都合主義の恐い点であり、

自身の意志の弱さや駄目な自分を
知らねばならない点でもあります。

ご都合主義気味の思考が
染付いてしまっている貴方は
まずは大好きな「自分自身」から
一旦離れてみて下さい。

そして、自身の物差しで
相手を計る悪癖を辞めましょう。

貴方の基準は貴方にしか通用しません。

「相手のため」と口にしているのであれば
相手の基準に理解を示せる様な寛容性と
そこに至らしめる為の努力をしましょう。

自己優先、自分本位を支持したところで
得たい生き易さなどは
離別していくばかりですからね。

言葉一つ動き1つ
己基準の誇示ではなく
相手の基準へ
理解を示せ
互いの基準の隙間を
埋めるのではなく
縮める努力をするんや

2025年12月7日日曜日

時系列の軽視(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




普段の会話の中で
人に何かを話したり伝えたりする際、
時系列を無視する人が居ます。

順を追って説明するよりも

「その場の感情」や
「自身の感情に流されてしまい」

まともな説明が出来ないという意味です。

物事には順序というものが存在していて
その流れに沿うからこそ
事象というものが成立するのですが、

その重要点を自身の感情等を軸として
ガッツリと無視してしまう。

例えば、

自分が可哀想な思いをした、
辛い思いをした、
ムカつく思いをした、
面白かった、

これらの感情を元手として
同意を得たい、共感してほしいという
気持ちが先走ってしまい、

いつ(when)という大切な要素を
どこかへ置き去ってしまう。

「仕事で失礼な事を言われたの
本当にムカつく」

みたいな会話があったとして、
これだけを聞くと当日中の話かと
思ってしまいますよね。

しかし、実際は数日前の話だったりする。

これが時系列の軽視。




おまけに、時系列を軽視すると
「前後の欠損」というオプションも
もれなく付いてきます。

何かというと、
先述した例えで失礼な事を言われた点。
ここの失礼な事というのが、

そもそも当人が発端であったりする。

早い話が、
自分が原因で自分がいけないのに
その汚点を見せたくないし
認めたくないが一心で
ムカつくという点に絞って、
相手の同意を誘って満足する。

という、一から十まで自分本位な行為。

つまり、時系列を軽視する人は
自分本位の比率が高い事が多いのです。

なので、老若男女問わずに人の話は
よく聴かないといけません。
文字であるならば、
よく視ないといけない。

そして、よく考えて
お返事をしてあげないと駄目です。

「それはいつの話で、誰と誰が居て
前後の状況を教えてくれないと
意見も言えなければ同意も出来ないよ」と。




また、自身の話をする際に
出来るだけ固有名詞を出す事が
相手に対して物凄く丁寧な対応となります。

「こういう人が居てね...」
ではなくて、
「〇〇さんという人が居てね...」
という感じの話し方です。

話す相手が分かり易い様に
人だけでなく固有名詞は
出来るだけ教えてあげる。
(相手のためという業ですね)

聞く側だった場合は、
単刀直入に名前を聞くのも大切です。
「それは誰さんなの」と。

話し手が言いたくない場合もありますが、
これは聞いてる側の権利ですから
気にせずに聞きましょう。

名前すらも言いたくないのか
名前を言うのが都合悪いのか

聞く事によって話し手側のスタンスが
透けて視えますからね。大切な事です。

これらを踏まえた上で
自身の周りで起きてる会話を
今一度、思い返してみましょう。

貴方自身が良い様に
利用されていたかも知れませんよ。

感情論で話しても
何一つ解決はしない
くだらん話に
付き合っているほど
無駄な時間は
無いんやで