皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は前向き思考について
お話をしたいと思います。
人には
「幸せを呼び込みやすい人」
というタイプが居ます。
自然と幸せを呼び込んでしまうタイプ
って意味です。
このタイプの人には
幾つか特徴が出ます。
<素直さ度が高い>
とても素直さ度が高く、
疑うよりもまずは実行に移します。
とは言っても、
漫然と信じて疑わないのではなくて
その場その場で善し悪しの判断は
きちんと行えます。
即断即決が基本ですので、
動きがいつもパパっとしていて
「とりあえず様子を見よう…」
という様な、後手に回る行動を嫌います。
また、一方からの意見だけでなく
他方からの話を
ちゃんと聞いて判断する耳を持っています。
ですから、常に冷静です。
<感情の出し方が上手い>
喜怒哀楽がハッキリとしているので、
少しの事でも感動を覚えます。
性格は物凄く明るいです。
逆に、
大衆的なものや
明らかな宣伝や喧伝による
感情の誘導などには目もくれない!
と言った、目利きが出来ます。
(全米が感動した!が効かない)
あくまでも自身を基準にして
感情の判断をしますので、
感情移入による誤作動が少ないです。
ですので、
逆の立場の人からすると、
感情の出し方が下手くそとか
感情が無い様に思われがちな面があります。
<嫉妬や妬みを持たない>
人を羨んだり妬んだりする事を
何よりも嫌います。
「自分は自分!」
というのをハッキリと持っているので
人様と比べる事自体に
価値を見出していません。
また、その価値観は生まれながらにして
持っている事も然りですが、
生きてくる中で、
人様と比べて優位性や優越感を覚えても
そのせいで酷い目にあったりと
体験や経験から裏取りが出来ている事も
多いので、芯がとても堅いです。
では、競争心が無いのかというと
そうではなくて、
勝負事はちゃんと心得ていますから、
大義を視る事に長けています。
<小さい幸せを見付けやすい>
自分の内側も外側もバランスよく
視る事が出来るので、
ありとあらゆる場面において
小さい幸せを人一倍
見付ける事が出来ます。
自然霊をキャッチする能力にも
長けているので、
常に何かしらの自然霊と交流したり
自然霊から傍に寄ったりしています。
そして、霊という存在への偏見が
殆ど無いに等しいので、
不可思議な事を目の当たりにしても
愛を以って接する事はあっても、
恐怖を広める事がありません。
また、愛情と愛の違いを明確且つ
詳細に説明ができる程に理解しています。
如何でしたか?
貴方は該当していましたか?
これらは大枠での特徴に過ぎませんが
もし、貴方が該当していなかったとしても
努力次第で本当に身に付く事が
出来ますからね。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は、単純な事について
お話をしたいと思います。
人生を全うした後、
良い所へ行きたいか
嫌な所へ行きたいか
こう尋ねられたら、
誰しもが良い所へ行きたいと
考える筈です。
では、
実際のところ良い所へ行くのは
簡単なのでしょうか?
特段、難しくなく
行けるものなのでしょうか?
あにきに言わせると、
そんな簡単なものではないです。
ただボケっと生きているだけでは、
ほぼほぼ地獄堕ちします。
そんな簡単に浄土へ行けるのであれば
何もわざわざ
この世に産まれてくる必要なんて無いです。
浄土へ行ける絶対条件の一つに
「幸せの度合いの向上」
というのがあります。
人には一人一人
幸せの度合いというのがありまして、
それを人生内にて如何に増やすか
つまり向上させる事が出来るか?
というのが、
人共通の生きる上でのお題目です。
で、
これをある程度向上する事が出来た人が
浄土へ行く切符を手に入れられます。
それは、かなりの難易度でして、
この世に居るのだから
この世の理、人の世の理を
守っていれば行ける訳でなく
この世に居ながらにして
向こうの世界の理を守りつつ
業を積み重ねていく。
というのが鍵となります。
この世の理を馬鹿の一つ覚え宜しく
ただ守っているだけでは駄目なのです。
それであるならば、
この世の理、要は人の法のみを
遵守していれば良いという事になります。
それですと、国や地域によって
差が発生しますよね。
何よりも、神仏を否定する事に繋がります。
人をベースにして
守っていれば良い訳ですから
どんな売り文句を述べたって、
神仏などただのお飾りという事になります。
これ、普通に考えて、
とても大きなパラドックスです。
日本に居るとピンと来難いですが、
世界を見渡すと宗教をベースにしている法や
国が結構多いですからね。
それを否定すれば、良い所へ行ける?
別にあにきは宗教家ではないですけれど、
それって何か違くね?
それに、この論理でいきますと、
この世の理さえ守っていれば
どんなクズでも良い所へ行ける。
という話にもなります。
生きていれば分かりますが、
皆が皆、必ずしも
法で裁かれる訳ではないですよね?
明らかに罪が黒の人でも、
法に違反さえしていなければ
裁かれる事は無いです。
貴方の周りを見渡してみて下さい。
皆さん罪なき真っ白で良い人ですか?
貴方自身はどうですか?
心も体も真っ白クリーン?
どう考えてもそれはないです。
それであるならば、
この世はもっと平和ですもの。
警察すら必要ないですよね。
基本的にボケっと生きていると
自然と罪を作ってしまうのが人。
その罪というのは、
この世の理に於ける罪ではなくて、
向こうの世界の理に於ける罪です。
以前にもご紹介しましたが、
向こうの世界の理での罪は大枠で
【 八罪 】
というのが、あります。
【業の断ち切り】
【業の放棄】
【他への辱め】
【自への辱め】
【信に徹さない】
【伝に務めない】
【勇を用いない】
【自に堕ちる】
これですね。
簡単に言えば、
この世の理を守りつつ
これを犯さない様にしながら
生きていく。
とても難しいですが、
その過程の中での苦楽を経験する事で
幸せの度合いが向上していく。
詰まるところ、徳を積むという話です。
ただ、徳を積むって言っても
よく分からないだろうから、
あにきとしては、
まずは小さい幸せを見付けてこうね!
っていう、とても簡単な方法で
教えている訳です。
どうしてもこういうのって
自分の周りだけで考えがちですが、
人なんですから、
全人類単位で考えないといけません。
そうやって考えると、
良い所へ行くのなんて簡単な訳ないって
直ぐに分かりそうなものですけどね。
先ほども述べましたが、
国境線を跨いだ瞬間に文化や法が
変わるんですよ?
それとは別の基準が存在していると
考えるのが普通だと思います。
(実際に存在しているんだけども...)
言及はしませんけどね、
簡単だと言うのであれば、
何か別の思惑が存在していると
考えるのが妥当だと思いますよ。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回も自分を善くさせる事について
お話をしたいと思います。
これまで、
自分を善くさせるという点に関して
縷々話をしてきました。
日頃から皆さんも
自分を善くさせる為に
色々な事をしてみたり、
気を付けてみたりされてると思います。
物を身に付けてみたり、
逆に捨ててみたり、
占いをしてみたり、
それを聞いてみたり、見てみたり
パワースポットへ出向いてみたり
験を担いでみたり...
本当に多々あると思いますが、
何をやるにしても
「実行力」が伴っていないと
まず善くなる事は無いです。
何はともあれ、
まずは動くという事ですね。
考えてから動くのは、
ある程度の知識が身に付いた後の
動き方です。
知識が乏しい状態ですと
考えたら考えただけ
動きが鈍くなりますし、
それどころか
動けなくなる事の方が多いです。
なので、まずは動く。
その後、ちゃんと考える。
動きながら考える。
と、言う事はですよ、
どんな事でも
「踏み込む勇気が必要」
という話になる訳です。
「勇を用いる」ですね。
怖気付いたり何もしない内は
変える事など不可能です。
同時に信じる事が必要です。
「信に徹する」ですね。
教わったのなら、
教わった人の言葉を信じれば良いし
自分で思い付いたのなら、
自分をちゃんと信じ切らないといけない。
その上で、
しっかりと伝えなければいけません。
自分に対してもですし、
神社仏閣で願掛けをするなら
神様仏様に対しても真摯に伝える。
それが人でも物でも何でも同じです。
そこには言霊という形で
「想い」が宿ります。
つまり、
「伝に務める」ですね。
伝えるという事は、
汲み取るという事でもあります。
ちゃんと聞き取るという意味です。
普通に考えて、
言いっ放しで善くなる訳がないでしょ?
どんな相手でも会話が成立して
初めて善くなる方へ進みますから、
その意思を汲み取れなければ
どうにもこうにも変わりゃしません。
この様に、ご自身を善くさせる為に
何をやっても結構ですが、
ご自分の中で留まっている内は
善い方向へ舵取りなど出来ません。
理由は簡単で、
ご自身の中でウズウズしているだけなら
それは自分本位に他ならないからです。
要するに、
貧乏神と同じという事。
自分の中だけに留めとくのは、
自分だけが善くなりたい
という意思の表れにすぎません。
その欲中心の思考では、
実行に移すという行動が出来なくなります。
実行に移せないという事は、
「維持継続が出来ない」
という結果にも繋がります。
そんなんで善くなる訳がないですよね。
それに、実行力の後ろ盾として
信に徹する、伝に務める、勇を用いる
この三つの理を律しないという事は、
聞くだけ聞いて何もしない
願うだけ願って何もしない
見るだけ見て何もしない
思うだけ思って何もしない
という意味ですから、
こうして書いてある文字を読むだけでも
善くならないのは分かりますよね?
また、目線を変えれば、
手伝ってくれてる人や物、存在に対しての
裏切りそのものなんですよ。
いや、誰にも頼んでないし、
願掛けも話もしていないし、
という人も居ると思いますが、
ここにはね、第三者だけでなく、
貴方自身も含まれているという事です。
自分をも裏切っていれば、
自分を善くさせるなんて夢物語ですよ(笑)
総じて言える事はですね、
何をするにしても
自分を善くさせたいのであれば、
まずは、
「自分の思考と意識を見直す事が
第一歩となってくる」
という事なのですよ。
自分を善くさせてる人は、
大なり小なりこれを理解していますから
善くさせる事が出来てるんです。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回も自分を善くさせる事について
お話をしたいと思います。
自分を善くさせるというのは、
端的に言えば
貧乏神にならない事を指します。
では、
貧乏神というのは何か?
今までにも散々書いてますので
ここでは細かい事は述べませんが、
自己中心的な思考
自意識過剰
自己研鑽
自己満足
自画自賛
自己顕示欲過多
承認欲求過多など
これらを基にして
万物への想いが中心ではなく、
「自身の欲を中心に」
活動している存在です。
これらの要素を持ってはダメ
という事ではないです。
間違いなく誰でも持っていますし、
失くす事など無理ですからね。
肝心なのは、これらを制御する事。
自分の中身を構成する物なのですから
制御すれば良いだけです。
制御させるには行動の基準が
想い中心となれば必ず可能です。
想い中心と言うと、
いつも優しくニッコニコ♡
怒る事なんてないよ♡
を連想しがちですが、
それは
人間味を殺している馬鹿者です。
寧ろそういう人は
貧乏神やその眷属ですね。
想いが中心というのは、
喜怒哀楽を保持して
感情をしっかりと表に出し、
相手が人に限らず、
自分の意思をハッキリと伝える。
という事です。
これが欲中心となると、
何をするにしても
「自分!自分!自分!」
という様になりまして、
自分だけが良くなりたい
自分だけは嫌われたくない
自分だけが見られたい
自分だけが思われたい
どうして自分だけ
どうせ自分は
などといった事が行動概念となって
動く様になります。
どんなに綺麗事を並べても
どんなに丁寧な言葉を使っても
所詮はこの行動概念ですから、
ふとした瞬間に化けの皮が剥がれます。
これらを如何に失くしていくのか
真逆の方向へ変えていくのか
それが自分を善くさせるという事に
繋がっていきます。
あにきの所へお越しになる方も
多かれ少なかれ
最初はこれらが発現しています。
けれども、
ご自身で違和感を覚えていたり
良くない事が多発していたりで、
どうにもこうにも良くなりたいから
来られる訳ですね。
その中で、こういう事があります。
あにきがインスタ(#やストーリーズ)に
載せた事を
「自分の為に載せてくれて
ありがとうございます。」
みたいに言う人が結構いるのですが、
ハッキリ言いますけどね
どなたか特定の存在に向けて
書いてる事は殆ど無いです。
本当にお陰様をもちまして、
結構な数の方とお話を
させて頂いておりますから、
お一人お一人に対して、
それをやるなんて事が無理なのですよ。
自分の為に…
と、感じるのは結構ですが、
それは、
偶々貴方の中に合致しただけであって
決して特定はしていません。
完全な勘違いですよ。
もし、勘違いでなければ、
貴方の中で自意識過剰が過ぎている
という事になりますから、
それは貧乏神の兆候そのものですよ。
自分を善くさせたいのならば、
こういう面から
本当に気を付けないといけませんね。
で、
こういう事を書くと、
「自分に対して書かれた…」
って、言うんでしょ?
だから、
それが駄目なんだって(´Д`)ハァ…
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回も自分を善くさせる事について
お話をしたいと思います。
前回お話をした内容を踏まえつつ
頑張っていたとしても、
また、同様の事やご自身に沿った
アドバイスをしてもらえて
やり続けていたとしても、
気が付いたら
「手段が目的となっている」
というケースが多いです。
どうしてこの様な事が
起きるのかと言いますと、
自分で定義した若しくは、
他者から定義してもらった課題、
つまり、目的や目標ですね、
これをクリアさせる為に
努力をしていた筈なのに、
自身を見つめるという点を
疎かにしてしまって、
「何の為に...」といった
前回お話をした肝心要の部分を
忘れてしまう。
何でもそうですが、
努力や尽力というのは
往々にして苦しいものです。
その苦しさのあまり、
自然と楽な方へと思考が流れてしまう。
「もう少し簡単な方法は無いかな...」
「今日くらいはやらなくても良いかな...」
「忙しいから後でやれば良いや...」
「今は忙しいし…」
自身で決意や覚悟を表明しても
いざ苦行を味わうと避けたくなる。
人の為だなんだと
格好良い事を言いながらも
それよりも苦しさから逃れたい。
そんな意識が出てきてしまうから
結果として、
御大層な大義名分よりも
自分を取ってしまう。
故に起こるのが「手段の目的化」です。
何かを達成させるというのは、
生半可な意識や気持ちでは難しいです。
前述した話などは、
身近なところで言うと
ダイエットなんかがそうですよね。
最初こそ、意気込みはあるけれども
ただ痩せたいというだけでは、
きつくなってくれば
「休む」という二文字が出てきて止まる。
運動自体そのものが続かない。
続かないから簡単な方法でやってても
今度は思った様に成果が上がらないから
優先順位を切り替えて辞めてしまう。
色々やって仮に痩せられたとしても、
今度はそれを維持する事が出来ずに
リバウンドで悪化してしまう。
自分の中の悪魔の囁きに
耳を貸したが為に、
本来の目的を忘失して
手段が目的となった典型例ですね。
これらを回避して、
自分を善くさせる為の
達成率を上げるには
色々あると思いますが、
何はともあれ第一には、
「断言する」というのが重要になってくる。
と、あにきは考えます。
本当にヤバいと思えば
「誰の為に」という言葉にも重みが出ますし、
形振りも構ってなんかいられません。
それまでが善くなかったから、
善くなろうとしているのに
自身の意識の度合いが弱いから、
途中で諦めてしまう。
苦しいとは言っても
別に死ぬ訳でも無い程度の苦行ですよ。
それらを乗り越える為に
自分の中に意識を強く打ち込むには、
断言すれば良いんですよ。
考えてみて下さい。
普通に生活をしていて、
断言する機会ってありますか?
ほぼほぼ無いと思いますよ。
というよりも、
断言とは真逆の曖昧な状態や
中途半端な甘やかしばかりですよね。
だから、
人に言われたからでも何でも良いから
断言するんです。
ちゃんと目的も謳った上で、
「私はやる」「俺はやる」って。
断言するんです。
あにきのセッションでも
しっかり言葉に出して
断言させる事はあります。
その結果は歴然で、
やはり断言した人の方が
ご自身に打ち勝っていますもの。
もし、ご自身で善くさせる為に
何かを頑張りたいという人は、
断言を是非お試しになってみて下さい。
とても小さな行動ですが、
貴方にとっては
とても大きな一歩となりますよ。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は、自分を善くさせる事について
ワンポイントアドバイス的な
お話をしたいと思います。
自分を善くしたい、
今よりも善くさせたい
というのは、誰しもが考える事ですが、
実際には何をすれば良いのでしょうか?
物に頼る、神頼み、独力、
その方法は色々とありますが、
何よりも重要になるのは
結局のところ
「他への思い遣り」です。
何を頑張ってたとしても、
ここが理解出来なければ
善くなるなんてのは難しいです。
そして、その思い遣りを考える上で
とても大切になってくるのが、
「何の為に?」
という目的です。
自分を善くさせるというのも
目的ではあるのですが、
これを主たる目的としてしまうと
自分本位になってしまいがちです。
ですから、
主たる目的の為に
「自分を善くさせる」という様に
修飾させる考え方でいかないと
なかなかどうして難しくなります。
家族の為になのか、
子供の為になのか
大切な人の為になのか
会社の為に、
組織の為に、
生徒さんの為に、
言い出したらキリがありませんが、
自分自身の為にというよりも前に
「何の為なのか?」
を、ちゃんと言葉に出来て、
それに向かう事が出来るのかを
自分がしっかりと認識する事が
自分を善くさせる為の第一歩でもあり
思い遣りへと繋がる思考となります。
この考え方が出来ると、
目的がハッキリとしますから
行動の優先順位を設ける事が可能なので、
より一層、自身の動きが活性化して
善くするぞ!
という方へと頑張れる様になる訳です。
しかしながら、
これが自分の為にという感じになると、
責任感が薄れてしまうのと、
どうしても甘えが生じてしまい
弱気になったり、憐れんだり、
下手をすると自己憐憫に陥ります。
また、思い遣りよりも
自己を優先させる事にも繋がるので
善くなるどころか、
気が付けば貧乏神の入口に居る...
なんて事も往々にして有り得ます。
今の世の中は、
色んな方が色んな事を好きに言えたり
教えたり勧めたりする事が可能な時代です。
あにき目線で見ると怪しい奴が殆どですが、
選ぶのは皆さんです。
その方法を選ぶ際に、
誰の為になのかをご自身で考える事と、
その点を教えてくれたり補佐してくれたり
助言してくれる人や方法を選ぶ様にすると、
ご自身の事を善くさせるのに
効率良く動けると思いますよ。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は久しぶりに
霊的な話をしたいと思います。
世の中には少なからず生霊や
悪霊に憑依されてしまう人が居ます。
そういった事象からの解決を
図るのがあにきの仕事なのですが、
そもそもがそれらの憑依から
救えない人というのも存在します。
どういうタイプの人かを端的に言うと、
「自分を視れない人」です。
自分を視れないというのは、
鏡を見れないとか
そういう物理的な意味ではないです。
自分の心理状態や心を視れない
という様な、
蓋をするタイプの方を指します。
この手のタイプの方は、
ご自分の世界観が全てなので
自分にとって都合の良い世界を
崩す事が出来ません。
その最たる例が、
霊に対する恐怖への打ち勝ちです。
どんなに説明をしても
実話や事例を話をしても、
「霊=怖い」から脱せない。
というか、
ハッキリ言ってしまえば
「脱したくない」が正解です。
霊=怖くない
という本当の意味自体が都合が悪い。
だから、脱したくない。
それを隠す為に「脱さない」に固執する。
そうしておけば、
怖い怖いと皆に言えますし、
同情も買ってもらえます。
「私は特別だから憑依される」と、
ちっぽけな優越感を味わいたい人も居ます。
結局のところ、
実生活内で相手にされていなかったり
人に対して愛情を以って触れる事が
往々にして出来ないから、
こういった歪んだ思想を維持させようとする。
ですが、
この手の人に対しても除霊は出来ます。
あっちいけ~!
と、やれば良いだけですし。
但し、直ぐに元に戻ります。
同じ霊が返って来ない様にしても、
違う霊が直ぐに入り込みます。
何故なら、
当の御本人が霊を拒絶していないからです。
先述した様に、
「憑依されてる自分は特別」
「怖い思いをしてる自分かわいそう」
という点を中心に
優先順位を設けてますから
常に悪霊ウエルカム状態であり、
生活上でも生霊化してる貧乏神に
ほぼほぼ囲まれていますから、
やはりウエルカム状態。
根本的な解決を望んでいないのですから
そりゃ当然に救える筈が無いのです。
そういうタイプの人は、
総じて玄人に対しても自分の意見の
正当性を述べてきます。
このブログで書いている様な事実や
現実は到底受け入れられないからです。
その上で玄人の選別をします。
自分の意見にイエスなら本物。
ノーなら偽者認定します。
では、
その手の人に対してあにきは
どういった対応をするのかというと、
本当の意味で本人を救えないのは
分かっていますが、
ひょっとしたら改心するかも知れないので
それに必要な情報はキチンと教えます。
どんな情報かは記載しませんが、
まぁ、皆さんであれば
「あまり聞きたくない情報」ですね。
これまで結構な人数に
迷惑を掛けてきてるのですから
そのくらいはね、してあげないと!
だってさ、補助霊さんとかに対しても
怖い怖いをするんだよ?
そりゃ、ちょっとはね、
ムカつくよね。