2026年1月28日水曜日

杠ノ様ニ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




何かを教え、何かを教わる。

普段の生活の中、縷々様々な場面で
教えたり教わったりが
繰り広げられています。

学校や習い事だけでなく、
家庭での育児などもその内の一つですね。

教える側というのは、
教わる側やその相手に対しどうしても

「理解をさせようとしたり」
「分かってもらおうとしたり」

その思考が、
さも当然の如く働いてしまいがちです。

ですが、実際は理解をさせるというのは
ナンセンスでしかないのが事実です。

教える側の目的はあくまでも「教示」であり
教わる側の目的は「享受」です。

理解をするしないというのは、
教える側の目的でもなければ
教わる側の目的でもなくて、

1つの「結果」に過ぎません。




理解をするしないというのは、
その途中に存在する経過の一つであり
個々人に委ねられた結果でしかないのです。

そこを闇雲に教える側が
理解をさせようとしたところで、

個々人に対する無理を誘発させますから
致命的なskilloutを生じさせてしまいます。

skilloutとは
"堕情"や"没落"や"惰願"を意味します。

個々人の能力は
個人力という形で表現出来ますが、
その中には認知力や理解力と云った

「基礎認識能力」も含まれています。

この能力値は個人により差があり、
決して一定値というものではありません。

ですから、教える側というのは、
教わる側に於ける個々人の能力値を
適宜把握した上で、教示する必要があります。

然しながら、それは個人間であっても
現実的な対応とは言い難いものです。

何故なら、どの様な物事に於いても
教える側と教わる側の適用比率に
極端な差があるからですね。

簡単に云うと、
「付きっ切りとか無理だしw」って話です。




教える側は教示に徹し、教わる側は享受に徹す。

その経過の中で生じる理解というのは
個々人へ委ねて見守る。

それでも理解へ向けて
教える側に出来る事と云うなれば、
考え方そのものの教示する事であり

その他で遣れる事など
皆無に等しいのが現実です。

そして、享受へ向けた
きっかけとしての教示を導じたなら、
教わる側へ信任して教示の一線からは退く。

これは1つ1つのカテゴリー内に至っても
何ら変わらないです。

人は甘え楽をしようとする生き物です。
過度な教示は怠惰を招き、
いずれ堕落へと転じさせます。

それは目的とは程遠い結果であり、
決して選択してはならない罪の一つです。

教示を済ませたならば

「信じ 任せ 委ね 退く」

育てたいのであれば手を出さずに
潔く身を退く事が思い遣りとなるのです。

全力での対応も
細かな後押しも
やり過ぎたら
意味が無いんや
硬軟織交は
教える側自身にも
適用するんやで

2026年1月27日火曜日

認知は抑制より強し(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




駄目な自分を認める事が
何よりも大切な事なのですよと
前々からお話をしています。

その際に、駄目な自分を
抑えようとする事は

「愚行」

とも、お話をしています。

物事を抑えようとすると
どうなりますか。

違った要らぬところが出てくるか。
大切な所が凹みます。

そして、抑えられている部分は
必ず反発をして
元に戻ろうとするのです。

この戻ろうとする時の力は、
それまで必死に抑えていた分の力量を
多分に含んでいますから、

今度は抑えられなくなって
飲み込まれてしまうか、
その力によって破壊に繋がるか。

どちらにしても、善い結果など
生まれる事はありません。




それなら、
駄目な自分を認めてしまう方が良い。

認めた上で「これも自分だよな」と、
笑い飛ばしてしまった方が
自身への負担は少ないものとなるのです。

これが「首輪を付ける」と、いうやつです。

どんなに毛嫌いしても
駄目な自分だって「自分」なのですから、

出てくるものですし、
出てこようとするものなのですよ。

そんな自分を毛嫌いして、
ましてや消そうと考えるなど
善い部分だけを欲しているという事ですから

それは立派な俗欲ですよ。
しかも、かなり強力なやつです。
善い部分だけを見せたり欲したりするなら

表裏一体の原則を無視するという事ですから
貧乏神へと堕ちて
人間らしさを捨てるしか方法がありません。

烏滸がましい話ですね。




駄目な自分を出したくないのであれば、
駄目な自分を「飼い慣らす」のです。

無理に抑え込んで
「出て来るな」
と、やればやるほど出たくなる。

そうではなくて、
「今は出ないでね」
と、優しく諭してあげる。

その為には、どこかで駄目な自分を
表に出してあげる事だって必要になります。

限られた場面にはなるけれども
ちゃんと表に出してあげてれば、

駄目な自分が出てほしくない場面で
言う事を聞かせる事は可能です。
駄目な自分を毛嫌いするから
善い自分すらも表に出せなくなるのです。

物事の判別を「善悪二択」で考える愚行。
善悪二択しかないと思っている陳腐さ。

同じ事を幾度も教えてもらっているのに
胸の内へ落とせない自身の低い素直さが
何よりもの根源だとも気が付かない浅はかさ。

だから、
分からない事を分からないと聞けずに
分かった振りをして済まそうとする。

何が分かって、何が分からないのかを
素直に尋ねる様にする事が
駄目な自分を認める最初の一歩ですからね。

それでも駄目な自分を
認めずに
抑えたいなら
やってみればええ
確実に痛い目を見る
だけやさかい

駄目な自分を認めて笑う(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




誰にでも辛い時ですとか
苦しんでしまう時があります。

そういう時と云うのは
比較をしてしまっている時が多いです。

他者と比べたり
周りの状況と比べたり
自身の過去と比べたり

比べたところで仕方がないのに
比較をしてしまう。

これは己の意識が内側に向いていたり
向き始めてしまうので
起きてしまう症状です。

この状態が進んでしまうと
意識の方向は加速度的に内側へと
引き摺り込まれていきます。

そうなってしまうと
以前からお話をしている通り、
思考的視野狭窄を引き起こします。

周りが視えなくって考えられなくなり
自己憐憫などの自分本位状態に
陥る事を示唆します。




そうなってしまうのは
とても悲しい事ですから、
なるべくならば回避をしたいものです。

では、どうするのか。

まずは、
自身が「比較」している状態にある事に
気が付く必要があります。

これは簡単ですが困難です。

意識の向き方が浅ければ
自身で自然と気が付きます。

後ろ向きな思考状態となるので
場合によっては身近な人に対して
自身の状態を話すかも知れませんし、

その上で、
指摘をしてくれたりするので気が付けます。

もしくは、貴方が何も言わずとも
その状態を誰かが察して
教えてくれるかも知れません。

自分自身で気が付こうが、
協力してもらって気が付こうが、

今の自分を認める。
今の自身を愛でる。

これが出来るか否かで、
その後に自分本位状態へ入るかどうかが
決まってくるのですよ。

駄目な自分に拒否感や後悔を覚えている内は
自分本位に一直線ですね。

ご都合主義ばかりで意味の無い反省を
口にしたり教えてもらうよりも

駄目な自分をしっかり認めつつ
それを笑い飛ばす様な言葉を
発してほしいものですね。

自分本位状態へと
陥り易い人は
この困難さを
理解せずに
良い自分だけを
愛でるものなんやで

2026年1月24日土曜日

前進の定理(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




もう既に何度も話をしていますが、
前進というのは、

「1歩でも半歩でも
1㎝でも進めば前進です」

どんな場面に於いても
この原則は変わりません。

そして、これを理解が出来ないのは
自分本位に過ぎないのだという事も
考えないといけません。

そもそもですが、
大幅に進まないと前進ではないと
何故思うのですか。

それを前進だと
認められないのであれば

例えばですが、

お子さんがテストを受けて
60点だったとします。
次のテストでは61点だったとします。

これだと前進ではないから
褒めないって事ですよね。

ひょっとしたら、
テストの難易度が
上がっているのかも知れない。

そうでなくても、前回比で
1点プラスされている訳ですから
善くなっているのに、
褒めないという事ですよね。




1歩の前進を認めないというのは
こういう事なのですよ。

過剰な期待と理想の重視。
現実を直視出来ない逃避。
内容の不考察。

どこまでも自分本位です。

身の程を知るというのは、
その先の自戒へと繋がります。

自戒が出来ると云う事は、
分析が出来るという意味です。
つまり、内容を考察出来る。

何が駄目で、何が良かったのか。
どこが出来なくて、どこが出来たのか。

これを人に当て嵌めると、
「相手のため」となるのです。

だからこそ、褒める事へと繋がる。
1歩の前進を認められない人は
褒める事が出来ないのだから、
褒められる事もありません。

点数の付けられない事でも同じです。

「今までやれなかった事がやれた」

少しの変化でもそれは大きな変化です。
それに気が付いたら普通に褒めます。

けれど、自分本位になっていれば、
理想が常となりますから

「そんなの出来て当然でしょ」

みたいな言い方になりますし、
そもそも気が付きませんよね。

人を、自分を伸ばすのであれば、
こういう点をニュートラルに捉えて
前へ向けて繋げていくのですよ。

理想はあくまで
幻想でしかなく
カタチの無い妄想
そんなものに
捉われるから
現実を視れなく
なるんやで

2026年1月21日水曜日

The choice is there now(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




「優しさというのは
人それぞれで違うもの」

と、お考えでいるならば
それは大きな間違いです。

「優しさというのは
その場面場面で変えるもの」

と、いうのが正しいです。

時には手伝ったり
時には放置したり
褒めたり、叱ったり笑ったり
一緒に泣いてあげたり
考えてあげたり

その場その場で都度変えていくのが
本来のスピリチュアルに於ける

「優しさ」となります。

何でもかんでもやってあげるとか、
問答無用で手伝ってしまうとか
口を挟んでしまうとか
勝手に先行して動いてしまったり
常に笑顔でいるとか
常に綺麗な言葉を使うとか

この様なものは優しさではなく
自分本位を幹とした自己満足に過ぎません。

相手のためを思うのであれば、
一緒にやってあげるよりも
「やらせた方が」良い場面もあります。

例えば、子供が何かをしでかした時、

一緒に謝る方が良いのか。
子供に謝らせる方が良いのか。

ここの見極めはとても重要です。
仮に幼児や児童であったとしても
都度考える必要が出て来ますが、

コドモとは言え
成人をしている場合だとどうでしょうか。




成人なのであれば責任が伴います。
社会的にも身内的にもです。

責任を取るための謝罪であるにも関わらず、
そんな場面に親が出張ってきたら
お子ちゃまは何を勉強するのでしょうか。

何かあったら親にお願いすれば済むという
責任の放棄と甘えという点については
覚えるでしょうけど、

何が駄目で、何が良くなかったのか。
誰に対しての謝辞で、どうすれば良いのか。
申し訳ないという感情や、
場合によっては恥なども絡んできます。

それらを体験させるからこそ、
次に同じ事をさせない、しない様に繋がる。

反省に導くための優しさであるならば
「放置」や「観察」という
突き放しが「優しさ」となるのに、

そこで共に頭を垂れたり謝辞を述べるなど
優しさとはかけ離れた異質なものです。
自身の俗欲を満たす為だけの動きですからね。

そういう事をすると結果として、
身体だけがデカくて責任感が皆無な
出来損ないのお子ちゃまが完成する。




先述したのは、あくまでも例えですが、

護る場面なのか
突き放す場面なのか

その時の状況や状態をちゃんと視聴きして
己のためではなく、
相手のためをしっかりと考えて動く。

これが本当の「優しさ」へと繋がります。

何を当たり前のことを言っているのだと
思われるでしょう。

然しながら、

普段から自分を中心に捉えていたり
自分本位思考であったり、
その傾向が強く出ていたり、
俗欲のコントロールを軽視していると

往々にして選択を間違えてしまうのが
この「優しさ」というものなのです。

自分は大丈夫などと考えているとね
ほぼほぼ間違いなくやらかしますよ。

どこまでも常に冷静に、常に忠実に
常に気を付けるのが重要なのです。

優しさを正しく
発揮させたいなら
まずは駄目な自分を
認める事やな
それが出来へん内は
優しさも何も
夢物語やで

2026年1月19日月曜日

褒める為には(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




大人だろうと子供だろうと
何か善い事をしたのであれば
「褒める」という業が大切です。

これは散々話しているので
いい加減にしろと
言われてしまいそうですが、

褒める為の前段階には
何が必要なのでしょうか。

褒めるとは言っても、
単に見たまんまを褒めているのでは

中身が伴わないし、
ただの馬鹿野郎ですよと
意味が無いですよという話は
以前にしました。

この中身を伴わせるための
重要事項が「否定」です。

褒める為なのに、
肯定ではなくて否定をするのかと
疑問を覚えるでしょうけど、
ここが重要な部分です。

善い事からの褒めるという流れですから、
普通に捉えるならば肯定です。

けれども、ここに落とし穴がありまして
それですと何も考えていないのですね。
流れ作業となってしまっていて
自身の中へ落とし込めていない状態です。




とは言え、
態々口に出して否定をする
必要はありません。

そんな事をしても相手さんを
只管に辛くさせるだけですからね。

あくまでも「褒める」のが最終目的であり
その為の手段として「落し込み」があり、
それを遂げるための「否定」です。

ここをしっかりと行う事で、
物事や事象の中身を正しく把握できます。

逆に云うならば、
これを省略してしまうと
見た目に流されたりするという事です。

ここのタイミングで「否定」をする事で
疑問符が貴方の中に生じます。

この疑問符を起きた事象で
逆説的に穴埋めしていく。
宛ら、一次方程式を解く感じです。

そこでの解が話と同となれば
褒めるに値する事象という事になる。

そうでなければ、何らかの疑問符
xやyが残る状態という訳ですから、
突き詰めていく必要がある訳です。

それを怠ると見た目に流されて
ズルも見抜けずに
「褒めたら負け」の状態に堕ちるのですね。




この否定というのは、
何も相手が居る時のみではなく
自身に対しても使えます。

と云うよりは、
寧ろ率先して使わなくてはいけない。
卑下する為の否定ではなくて、

事実に対して
最も近しい仮答を導く為の「否定」。

一も二も無く自己肯定ばかりに
目を向けていると、
自己防衛的な都合の良さが際立つので
事実認証があやふやになってしまいます。

そうなると、視点が一元化されてしまい、
多元的な視点、多面的な視野の確保が叶わず
逆説論での分析解析が出来なくなるのです。

詰まるところ、
「反省」「自戒」が出来ないという意味です。

どんな物事や事象でもそうですが、
一元的な視点ですと
そこには先述した様な「疑問符」が生じません。

既に式も解も見えている状態なのですから
至極当然の流れです。
そこからの自戒など在りもしないし、
出来る筈が無いのです。

先へ繋げる為の反省や自戒という業を
全うするのであれば、

まずは自身の動きを俯瞰視点から否定する
「自己否定」が必須となります。

勇を用いてこれを繰り返していくと
仮想とは言え、多元的な視点の確保が
構築される様になっていくので、

結果として、相手を想うですとか
相手の考えを計れる様になり、
相手の為へと繋がっていき、

「思い遣り」を得る運びとなるのです。

漫然たる自己肯定を進めて
他者からの全否定を受けるよりも

毅然たる自己否定からの
穿った肯定の方が何倍も何倍も
善いのではないかなと思いますけどね。

素直な否定を
素朴な疑問を
どこまで自分が
ストイックに
やれるかが
分かれ目やで

2026年1月17日土曜日

相手のためを考えれば(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




日頃の業というものには
縷々様々な物事がありますが、

その中でも「言葉」と「内容」というのは
得てして軽視しがちな点となる事が
多く見受けられます。

現代に於いて会話とは、
何も対面だけではありません。

電話は勿論のこと、多少の時間差はあれど
LINEなどの通信アプリでのやり取りも
立派な「会話」です。

常に相手のためを考えるのであれば、
この「会話」の中では一体何を
気にしなければいけないのかと云うと、

それが「言葉」と「内容」です。

言葉というのはそのままの意味です。
適切な文言を使っているかどうか。

但し、適宜丁寧な言葉や
綺麗な言葉を使うという意味ではなく、

相対している人物やそのやり取りに応じた
言葉を選んでいるかどうかです。

例えば、
気の置けない相手との何でもない会話で
普段はラフに話しているのに、
他人行儀な言葉を使われたり使ったら
おかしな具合になりますよね。

その逆も然りで、
お堅く話す場に於いてラフな言葉を
選んで話したら違和感を覚えますね。

そして、何よりも相手の状態や状況
環境を見据えた言葉を
ちゃんと選んでいるかがポイントです。




自分本位状態や自己優先状態となると
必然的に相手の事が視えなくなります。

思考的視野狭窄ですね。

そうなると、相手のためを考えれば
使ってはならない言葉も

「自分が良く思われたいが為に」とか
「自分を基準に捉えてしまう」から

使ってしまうものなのです。

僕は右耳が聴こえませんが、
その事実を教えて知っている人からも

「声が大きいですね」や
「よく聞けよ」などと
言われたりしていましたし、
それで傷付いたりする事が多々ありました。

今は慣れっこですが、その代わり
相手さんが疾患や障害を抱えていたり、
もしくは、そのご家族が疾患や障害などを
抱えている場合もありますから、

既知の事実だろうと知らなかろうと
会話での言葉選びには注意しています。

思い遣りですね。

次に「内容」なのですが、
この軽視は中々に奥が深いです。




以前に投稿をしました


これらの記事に被るものなのですが、
「反省」「感謝」「理解や了解」
などの単語の羅列は使うにしても

その内容については端折ってしまう。

「お願い」などについても同じですね。
何がどうして何故どこでいつという
内容に遵ずる解説や説明、

つまり、修飾するための言葉を
短絡させてしまう。

短絡させる側としては、

「わかってくれる(だろう)」
「要点だけを言えばいい」
「説明をした(つもり)」

と、なっているだけで、
短絡した内容を受け取った相手が
どういう風に感じるかなどは
微塵も考えていない状態ですね。

甘えや願望が前面に出てしまい
肝心要な部分を欠落させて
相手のためを考えずに自己優先で
自分本位を発動させている訳ですから、

受け取る側に対してかなりの不快感を
与えてしまうのは必定であり、
本来のスピリチュアルで云うところの
「恨み」や「念」を買ってしまう訳です。

思い遣りというのは
普段から気にして使い続けて
初めて使い熟す事が出来る「技」なのです。

尚且つ、自分本位というのは
常に貴方の隙を狙い続けているのですから

監視する意味も込めて
駄目な自分をしっかりと認めないと
いつまでも同じ事を繰り返しますからね。

不断の努力は
ふとした時の
業に出るもんや
その逆も然りで
口先ばかりの怠惰も
ふとした時に
出てくるんやで

2026年1月11日日曜日

褒めたら負け(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




褒めるという業はとても大切です。
周りに対してもですし、
自分に対してもです。

褒めるに値する動きをしたなら
ちゃんと褒める。
これまでも、
そうやって教えてきていますが、

この褒めるという業を
何でもかんでも褒めれば良いと
思っている人が居るのも事実です。

先にも触れましたが、
褒めるに値する動きをしたのであれば
褒めるというだけで、

特段それに該当するものでもないのに

「良くなりたい」とか
「(自分が)褒められたい」とか
「良く思われたい」など

努力もしていない上に不純な動機で
褒めたところで、そこには何一つ
プラスの効果など生じません。

如何せん同期の段階が「念」ですからね。




先述したのは褒める側の話ですが、
受け手側にも気を付けるべき点がありまして。

褒められたいが為の動きを
してしまう人が居ます。

例えばですが、

子供が何かをした時に
「こんだけやったよ」みたいな事を
言ってきますよね。

あれと同じ様な事をやる人の話を
今ここで話しています。

子供でしたら、
そりゃ余程御門違いな事でなければ褒めます。
ですが、今は大人の話です。

そんな承認欲求剥きだしで来る人を
褒めてしまったら、
褒めた人の負けになります。

ここでの負けとは、

「相手のためにならない事をした」

という意味です。

そもそも論で、そこまで承認欲求を
振りかざして来る人というのは、
その先の事を何一つ考えていないので
褒めたら最後、ほぼ確実に調子に乗ります。

また、褒められたいという点が
目的となってしまっているので、

その先に繋げる事自体が出来なくなる。
つまり、褒められるも何も
それは単なる通過点であり、

「手段」であって「目的」ではないのです。

例えば、
これだけ自分は頑張ったとか
わざわざ「自分」で言ってくる人など
褒めなくて良いんです。

それよりも、褒めずに次へ繋げるための
経過観察と指導が必要になります。

どういう動きをするのか。
不貞腐れるのか、努力をするのか。

貴方が視るべきポイントはそこであり、
受け言葉に買い言葉で条件反射的に
褒めてあげる事ではないのですね。

想像以上に多いですからね、
褒めてほしくて仕方がない
いい歳をした「大きなオトモダチ」は。

相手のためを
考えるなら
やる勇気と
やらない勇気を
きちんと使い分け
せなあかんで

2026年1月10日土曜日

良かれやらかし(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




良かれと思って何かの動きを執った際に
自分の思っていた事とは
真反対の結果となってしまった。

と、いう経験があると思います。

何も学ばない人は、
こういった動きをした時、
一体自分の何が駄目だったのかを考えずに

「自分は悪くない」
「良い事をしたのに」
「悪気はない」

と、云う様な
「言い訳」を主軸に考えます。
それ故に、物事の本質へは届かないので
同じ過ちを繰り返すのです。

反して、事実を学べる人は、
こういった動きをした時

「自分が何を目的に動いていたのか」
「誰のために動いていたのか」
「動くに至った根拠は何か」

と、云う様な
「意識の方向」を主軸に考えます。
それ故に、
口先では「相手のため」と言いながらも

その実では、自分の俗欲や自尊心を
満たすためだけに動いていたという
「行動の本質」へと辿り着くので、

同じ過ちを繰り返さないための
対策を練る方向へと舵を切ります。




どんなに善い事だと自分が思っていても
ちゃんと相手の目線に立たなければ、
ただの迷惑であり
余計なお世話に過ぎません。

その行動原理は先述した通り
意識の方向が内側へと
向き過ぎている為に起こる

俗欲の表現型です。
承認欲求や自己顕示欲ですね。

また、単に俗欲の制御が効かずに
自分本位依存となってしまっている
という様なケースもあります。

この場合ですと、

「自分の考える事は正しいに違いない」
「自分の考える事と皆同じに違いない」

と、云った具合の思考形成となる上、
自身が執った行動は「思い遣り」であると
信じて已まない状態ですので、

仮に正論と呼ばれる促しを行っても
逆に激高したり、話そのものに対して
一切聞く耳を持たなくなります。




どうしてこの様な事が起こるのか。

自分本位に依存しているが故の結果
ではあるのですが、

「思い遣り」という業に対する
認識違いが原因と捉えます。

自分本位依存状態となると、
思い遣りというのは

「(相手に)先んじて行うもの」

と、いう認識となります。

例えば、

相手がやる前に
自分がやってあげるのだから
相手はやらなくて良いわけだし
喜ぶに違いない

であり、意思に関しても

「自分の意思=相手の意思」

という形となります。

ですが、本来のスピリチュアルに於ける
思い遣りというのは

「相手を尊重した上での自身の行為」

でしかありませんから、
「自分の意思≠相手の意思」であると
理解して勝手な行動は慎みます。

つまり、自身が動く事による
相手へ与える影響度合いの「予測」が
思い遣りの根幹であるのだと認識しますので、

必ずしも「先んじた行為」とは
ならないのですね。

もし、貴方が「良かれやらかし」を
してしまいがちならば
一旦立ち止まれる様にする為に、

何をする時でも自身の行動は
「誰のため」「何のため」であるのかを、
常に考える様に努力して下さい。

遠回りで面倒に思えるかも知れませんが、
これが一番効果的です。
何故なら、

その時に止まろうと思っても
止まれないから
やらかしている訳ですし。

悪癖を矯正するには
より強力な癖で上書きする方法が
特効薬なのですよ。


根本的な変更を
していかないと
その先には
進めないんや
急がば回れやで

2026年1月6日火曜日

理解する努力(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人の話をよく聴く。

人との会話をする時
人から何かを教わる時

よく聴くという基本的な所作が
とても大切になってくるのですが、
「よく聴く」を実践しながら若しくは
実践した後に行う

「よく考える」

という所作も忘れてはいけません。

人の話を聴いている時、聴いたあと、

理解する努力をするのか
理解したと自分に言い聞かせるのか

「よく考える」という業は、
ここで差が視えます。

理解したと自分に言い聞かせてしまう人は
「言語的な理解」と「本質的な理解」を
一緒くたに捉えてしまう癖があります。

例えば、何かを教えてもらった際に、

「分かりました」
または
「分かります」「確かに」

と、条件反射的な反応で
答えてしまう事が多いです。

これとは別に
理解する努力が出来る人は、

言語的な理解と「本質的な理解」を
分けて考える伝える事が出来ます。

どういう事かと言うと
例えば、何かを教えてもらった際に

「分かりました」
ではなくて

「言葉については分かりました。
ですが、内容については分かりません。」

みたいな感じで、何が分かっていて
何が分からないのかという様な
修飾を口に出して上手に使います。




本来、話をしている最中ましてや
何かを教示してもらっている時というのは、
原則として自身の知らない事や

自身の中で不明瞭な部分の解説となります。
つまり、言葉や知識の海を
処女航海している様なものです。

早い話が未知でよく分からない状態。

けれども、話している言語は理解が出来る。
皆さんは日本人だから日本語話者でしょ。

日本語で話をしてもらっているのですから
そこで使われている「言葉」は
多かれ少なかれ即時理解が出来ますよね。

これが「言語的な理解」です。

この言語的な理解と、
話の本質的な理解というのを
その場でイコールとさせるには、
土台となるそれ相応の知識が必要です。

つまり、知らぬ状態の話を聴きながら
本質まで理解を示すのは
現実的にほぼ無理という事なのです。

但し、その補完材料として話者による
話し方や解説の上手さが存在します。

この場合、それを理解していて
相手のためを考えてくれる話者であれば
思考停止を防ぐ為に、

「今の今、理解しなくても大丈夫ですよ」
「分からなかったら質問をどうぞ」

みたいな事を、必ず諭してくれます。




これら上述した両者の差となるのが、

「想念のベクトル」であり
「意識の方向」です。

意識の方向が自身に向いていれば

「認められたい」
「負けたくない」

などの、承認欲求や自己顕示欲の類が
強く出てしまうので、

「理解をしたと
自分へ言い聞かせる動き」をします。

同時に思考停止もしますし、
分かりもしないのに背伸びした結果
自ら質問をする機会すら手離す事になります。

反対に、意識の方向が相手に向いていれば、

「ちゃんと答えたい」
「もっと詳しく知りたい」
「もっと教えてほしい」

と云った具合に、
自身が今相手と何をしているのか
その行為に対して真摯に向き合って
粗相の起きない様な心情を働かせます。

要は、相手目線を仮想した共感を求めるので、
細かく丁寧な言い回しをする様になるのです。

この様に、問答一つで
相手や自身の「意識の方向」をチェックする。

「何が」分かっていて
「何が」分からないのか

会話という日頃の業に直結する所作の中で
互いに見極めたり、気付いたり、
気付かせてあげる事が出来るのが
本来のスピリチュアルであり、

そして、
あくまでも現実的で実戦型である
と、云うのも忘れてはいけません。

不意に出る言葉は
ある種での楽やで。
楽に溺れるのが
どういう意味かを
思い返して
考えてみてや。