皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は感じ方について
お話をしたいと思います。
物質や物事事象に変動が起きたり
起きる前段階には、
そこへ力場が生じます。
力場というのは、
その事象によって大きさが違います。
感じ方も人それぞれ違っていて、
あにきの場合は、
事象や色がイメージで視えたり、
歪みや空気の流れが気になる事で
分かったりします。
あにきのお客さんにも
個人力としてその察知を発現した方も居て
詳細は伏せますが、
その方の場合は視覚で察知します。
ここで書くには限界がありますので、
さわりだけに留めますが
精度で言うと、
あにきのは近距離だったり
大まかな時間軸であれば察知できますが、
お客さんの場合は、もっと高精度で
遥かに長けています。
この様に個人力には様々な力が存在していて
今はお客さんのこの力を
適格に活かす為の訓練と実験を
共に行っている最中です。
どんな力にも責任が伴います。
大きな力になれば大きな責任が伴います。
個人力はその大小問わず
世の中の為に使う事が前提です。
それが力を持った者の責任です。
にも関わらず、
中途半端な力のまま自身に酔いしれたり
ひけらかしたりする人が多いのが現状です。
あにきはこれを絶対否定します。
力を持ったなら徹底的に伸ばして、
より正確に
より確実なものへと昇華させる。
そして、可能な限り世の中へ還元させる。
そうでなくては意味が無いからです。
但し、時間は掛かります。
あくまでも個々により進みは様々ですし、
力の種類も様々です。
おまけに受ける側のリテラシーの問題も
ありますからね。
こういう非科学能力開発も
あにきの様な立場の責任の一つです。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は、感覚の伸ばし方について
お話をしたいと思います。
私たちには様々な感覚があります。
ざっくり言うと、
五感と六感ですね。
特に六感を伸ばす上で躓き易いのが
「感覚の信憑性の高さ」です。
果たして、自分のこの感覚は
どのくらいの精度なのだろうか
というのが、最初は分かり難いのです。
ましてや、自分では確かめられない。
確かめられたとしても、
間違っているかも知れないし
力が発現して間もない方や
まだ使い熟せていない方となると
これが原因で自分に自信が持てず
伸ばすに伸ばせなかったり
下手をすると伸びなくなったりします。
ここで重要となってくるのが
「柔軟性」です。
人はどうしても完璧を目指します。
六感を使う場合は
その特性上かなりの確率で
完璧な答えを求めてしまいます。
使う側も使ってもらう側もです。
ですが、
この完璧を求めるという点が
何よりも仇となります。
本来、五感でさえ完璧など無いのですよ?
なのに、どうして六感では
それでなくてはならないのですか?
目に視えぬ力だからとか、
不思議な力だからとか、
考えは様々だと思いますが
人の身体を通して使う感覚なのですから、
完璧というのは逆にナンセンスです。
それに完璧というのは
受け取る側の基準一つで変わります。
それほどに曖昧なものなのです。
ですから、
結果として合致する様な、
時間が経過してからだとしても
内容が合う様な考え方であれば良いのです。
伸ばしたいのであれば、
当たる当たらないに拘らないこと。
特に、一発でなんて考えない事。
その柔軟性を心に秘めながら
伸ばす為の努力をしていくのです。
でないと、
無理な答えを出す癖が付いてしまって
精度はかなり落ちますからね。
精度を上げたい!伸ばしたい!
というのであれば、
決して手軽な完璧に拘らないで
まずは、柔軟な思考を身につけましょう。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は影響力について
お話をしたいと思います。
以前にも、
善い影響力と悪い影響力について
お話をしましたが、
今回はそれの補足だと思って下さい。
善い影響力にしても悪い影響力にしても
これらはその効果を
直接感じられたとしても
影響の範囲や影響"力"そのものを
目にする事は叶いません。
普通は、当然ですね。
これを可視化させたとしたら
どの様に視えるものなのか
偏に言うと、光や闇として
表わす事が出来ます。
善い影響力を持つ人は、
その人を中心に光で周囲を照らします。
薄っ暗い空間を照らす裸電球みたいな
感じをイメージすると良いですね。
薄暗い場所や仄暗い空間に灯があると
そこを頼りたくて集まりますよね。
そういうイメージです。
その中で、影響力の強さによって
電球ほどの人も居れば
眩しくて目を瞑ってしまう程に
光が強い人も居る。
一般的な意味合いとは違いますが、
仏像などには後光がありますよね?
あれが善い影響力の強さの象徴
と、あにきは考えています。
愛の強さとも言えますね。
それとは逆に、悪い影響力には
明るさではなくて暗さが伴います。
その人を中心に暗く薄黒い靄みたいのが
周囲を含めて覆う感じです。
よく、悪いお化けなんかを見た人が
「黒い人影が居たあれはヤバい」
とか、言ったりするでしょ?
あと、死期が近い人なんかも
黒いものを纏っていたりしてて
それを見た!なんて話も
聞いた事があるのではないでしょうか。
これは生きている人、
とりわけ悪い影響力が強い人にも
同じイメージで説明する事が出来ます。
悪い影響力の強い人は、
その人に引き寄せられた人を巻き込んで
黒い靄で覆っていきます。
もし、可視化出来たとしたら
そういう風に視えると思いますよ。
ちなみにですが、
死期が近い人が黒いものを纏うというのは、
少々言葉が足りてなくてですね、
死後に地獄又はそれに準ずる場へ行く人
つまり死後宜しくない方へ行く人は
黒いものを覆う感じです。
その逆で、死後善い処へ行く人は、
明るい光を纏った様に視えますからね。
もし、影響"力"が視えたとするならば
こういう視え方をします。
では、実際には視えるのか視えないのか。
そりゃ何もしていなければ視えません。
けれども…
日頃から業を善くして、自身の感覚を
研ぎ澄ませていけば目にする事は可能です。
目にすると言っても、その言葉通り
物理的に可視化して見える人も居れば
イメージとして可視化して視える人も居ます。
目にするというのは、
見えるのか?視えるのか?
どちらも同じ意味で同じ価値ですからね。
もし、貴方が視えていたとして
黒いものばかりだとしたら
環境や自身そのものを再検討した方が
良いかも知れませんね。
あと、分かり易くお話ししたくて
人と言う事で説明をしましたが、
これは人だけでなく万物全てに
該当しますからね。補足まで。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
生きているとどうしても疲れますし
辛い事も苦しい事もあります。
例えば、そんな時に
「楽をしたい」
と、思うのか、それとも
「息抜きをしよう」
と、思うのか
どちらを思うのかで
その後は大きく変わってきます。
楽をしたいというのは、
「やらずに済ませたい」
「やりたくない」
「やらずして何かを得たい」
という考え方を指し示しますね。
対して、息抜きをするというのは、
「一旦休憩をしよう」です。
つまり、
行動をしている事が前提となる考え方です。
この様に、似た様な意味合いを持つ言葉でも
中身は全く違います。
言葉には言霊が宿る事は周知の事実ですが、
言霊というのは、
言葉を声に発するのが条件で
発動するものではありません。
自身の中で声に出さずして考えていても
その効力は発現します。
ですから、
いくら自分だけで居たとしても
例え声を発しなかったとしても
その後の貴方の行動に対して
言霊は発動するものですから、
大切となってきます。
似た様な選定の例として、
年齢に関わる言葉があります。
「歳を取る」と「歳を重ねる」
どちらも意味合いとしては同じですが、
受け取る際の心情に変化が産まれます。
あにきは後者を好んで使います。
何故かと言うと、
歳という避け様のない事象を
経験というものへ置き換えて考えた時に
「一年一年の積み重ねが
自身の経験値の積み重ね」
と、取る事が出来るからです。
それはとてもポジティブな
気持ちになれますし、
亡くなった後も善い所へ行けば
まだまだ引き続き経験を重ねます。
その事実を鑑みた際に、
人が生きるというのは、
「終わりなき進化」だと思えるからです。
逆に、歳を取るですと、
現世が全てという感じに思えますし、
生きる理とは幾分かけ離れた言葉だと
あにきは考えるからです。
生きてる時も人として成長して
死後向こうの世界でも成長を続けます。
歳を取るという言葉は
そんな理に反する聴こえですし、
現世への過分な執着心すら覚えます。
実際に使うとネガティブがベースの
気持ちになりがちです。
現にそうやって使う言葉ですものね。
この様に言霊は、
いとも簡単に発動するものですから、
繊細な話の場合は
「出来るだけ前向きな言葉を選ぶ」
と、いった工夫をする事が
運気UPにも繋がるんですよ。
但し、かと言って普段から過剰なまでに
言葉選びに注力し過ぎるのは、
全くの逆効果となってしまって、
気が付いたら
貧乏神となってしまう危険性も
かなり大きいですから
注意して下さいね。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は、本シリーズの目的について
お話をしたいと思います。
このブログ内では幾つかシリーズと
名を打って書いている内容があります。
その中でも、
運気下げシリーズ
運気UPシリーズ
知識UPシリーズ
実践シリーズ
この4シリーズは明確な目的を持って
書いている内容となります。
何を目的としているのかは
非常にシンプルでして、
「皆さんが今後動きやすくなる為の
きっかけとヒント」
これだけです。
拍子抜けする程に単純な目的ですが、
今後確実に活かす必要がある事です。
但し、誰でもという訳ではありません。
生きていく中で全てにおいて平等という
存在が無いのと同様に、
「活かす必要がある方」
「活かすための方」
「活かす方」
に、対して書き認めている感じです。
とは言え、
これまで幾度となく書いていますが、
本筋の濃ゆい部分に関しては
セッションやレクチャー
はたまた秘密結社あにきで
話していますので、ここでは書きません。
と、言いますか書けないのです。
ですので、ただ読んだだけでは
誤った解釈をされる方もいると思います。
ですが、それはそれです。
どこかで正しい解釈を覚えるかも知れませんし、
いずれご縁があるかも知れません。
あにきではない似た存在に
巡り合うかも知れませんし、
どこまでも間違ったままかも知れません。
然しながら、
多くの人がステップアップをするには
この方法がベストなのは確かです。
既存の価値観や幸福感に支配されている
リテラシーの渦の中ですからね、
致し方無い結論です。
また、今後という点についても
いついつという様な"点"は存在しません。
"点"は非常に流動的且つ、複数です。
フィクションの様に、
世の中の全員が同時に
同一の何かを得たり、
進化したりなどというのは
確実にないと考えて大丈夫です。
何も起きないのではないです、
色々と起きます。
ですが、それらが齎す経過と結果は
かなりの時間差が生じます。
影響範囲も人的物的問わず差が生じます。
しかし、幾つかの"点"が過ぎ去った後の
生き方の概念そのものは確実に変わります。
そこへ向かって書いているだけです。
受け止め方は様々だと思いますが、
大切なのはまさにその受け止めです。
幸せ、安寧、希望
これが全てです。
けれども、
黙っていてもそんなのはやってきません。
自らが動いて喫するものです。
そして、その時の価値観は
現状での価値観で捉えられる様な
代物でもありません。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は、前回のお話と多少被りますが
見方についてお話をしたいと思います。
人や物というのは、
いつも同じに見えますが
実のところ日々全然違います。
何なら秒単位で変わります。
というのは、
前回もお話をしましたね。
では、実際にどういう風に見るのか?
一にも二にも大切なのは、
「いつも同じだと思わない」
という点です。
昨日も今日も明日も同じ。
そんな事は無いですよね。
今の今ですら中身は変わります。
現にこれを読む前の貴方と
読み終わった貴方では違う筈ですね。
ほんの少しのきっかけで変わってしまう。
人なんてそんなものなのです。
物の場合はどうでしょうか?
これは使う人によって変化します。
厳密に言うと、使う人の心情ですね。
これによって同一の物でも
まるで違う物へと変わってしまう。
人は常に変化する。
そんな人が使うのですから、
つまり、物もいつも違うという事です。
それを踏まえた上で、
今度は「決め付け」を無くします。
見た目や形、色や大きさ、製造国etc...
目に映る色んな情報から
人は相手を判別します。
この時に、可能な限り
決め付けを排除します。
一度でも決め付けをしてしまうと
そこからの転換は想像以上に難しいです。
ですが、ある程度は道筋を決めないと
行動出来ないのが人間です。
なので、決め付けを無くすと同時に
仮説を複数立てます。
想定した事が1つであれば、
決め付けに近くなってしまいますが、
複数であればそれは「候補」となります。
如何にこの「候補」を作れるか
現実的な仮説を作れるか
これが非常に重要となるのですね。
あにきはこれを
「多極的視点」
と、呼んでいます。
どこぞの都知事選の様に
何でもかんでも乱立させれば良い
という様なものではないです。
鍵となるのは「現実的な仮説」です。
例えば、
朝子供が起きてきて、
どっからどう見ても元気いっぱいなのに
(この子は風邪かも知れない...)
と、思う様な仮説は
全く以て意味が無いという事ですね。
非現実的です。
よく視てよく聴いて
現実の状況を踏まえた上で仮説を立てる。
そういう見方を人や物を問わず
身近なところから始めて
徐々に様々な場面へと適応させていきます。
この見方になれると不思議なくらい
極々小さな変化にも気が付ける様になります。
何とも馬鹿げた話に聴こえると思いますが、
こういうちょっとした危機管理を身に着けて
常に危機感を抱えて動く事が
所謂気付きを増やす事へ繋がります。
取り返しが付かなくなってから
気が付いても後の祭りですからね。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回はシンプルに日々の中での
気付きに関する事について
肩の力を抜いてお話をしたいと思います。
あにきは日頃からインスタグラムに
何かと小さい事を載せています
景色やらクワガタやらトンボやら...
事、特別なものを載せている訳ではなく
あくまでも日々起きている現象を
全き日常を、
加工せずに載せているだけなのですが、
珍しいとか不思議とか、
多々ご感想を頂いています。
ですが、改めて申し上げますけどね、
本当にどこにでもある事ですし、
決して珍しい事ではないのですよ。
ましてや、ここは秘境でもなければ
ただの山であり森なのですから。
では、どこにでもある事として
「どうして自分は気が付けないのだろうか」
という疑問が出てくると思います。
インスタを見る方によっては、
ご自分の住まいも似た環境だったり
近い環境だったりする方も居る訳ですからね。
これは単に
「思い込みによる思考の固定」が、
主な要因であると、あにきは考えます。
どういう事かと言いますと、
例えば、
日頃の景色などは
毎日違っていますよね?
その理屈は理解されていると思いますが、
実はまだ思い込んでしまっている為に
視線等の誘導が出来ていない
という感じです。
要するに、
一瞬動く度に、一歩動く度に、
見える景色、視える空気、視える物、
全て秒単位で違う筈なのに
どれもこれも同じだと
思い込んだまま過ごしているからこそ
気が付けない
無意識下での五感の固定です。
こんな事を経験した事はありませんか?
いつも車で走っている道を
徒歩で通った時に、
普段何気なく見ていた風景の
意外性に気が付いたり、
目線を少しだけずらしたら、
思いもよらぬ看板が立っていたなど。
人は速度上昇による視野狭窄や
意識を集中しない事による見流しが
実際には思っている以上に多いのです。
見ている様で視えていない
景色や空間の細かいディティールが
目の前にさも突然現れたかの様な経験。
それは単に発見で済む話ですが、
気付いた人や見付けた物によっては、
神秘ですとか奇跡ですとか
そういう風に位置付けられ易いです。
ですが、その結論は実に安直でして、
それまで自分の我儘で
気付かなかっただけであり
見付けられなかっただけなのです。
つまり、
今貴方ご自身が思い描く様な
口にする様な神秘も奇跡も、
五感さえ研ぎ澄ませれば
いつでも身近に転がっているのですね。
それを鑑みれば、
視ようとする目的意識が薄いが為に
目線が慣れていないだけですし、
聴こうとする目的意識が薄いが為に
耳が慣れていないだけです。
その他の嗅覚、味覚、触覚も同様です。
目的意識が薄いが為に慣れていない。
なので、
神秘だの奇跡だの不思議だのと
感じてしまうだけであって、
それらは元々そこら中に
転がっているのですね。
第六感も何もないのです。
あにきは常々申しております、
「神秘や奇跡を感じたければ
五感を徹底的に研ぎ澄ませればいい」
と。
何となく視るほど世界は狭くないですし
何となく聴くほど世界は無音ではないです。
その思考を持てる様になれば、
これまでの神秘は神秘ではなくなりますし
これまでの奇跡も奇跡ではなくなり、
その先にある
本当の意味での神秘や奇跡を
身体全体で感じられる様になりますし、
その時に初めて第六感というものを
その身で感受し制御する事が
出来る様になりますからね。
神秘や奇跡に対する気付きというのは、
現実を現実として逃げずに追及する事で
誰でも得られるモノなのです。
ですから、
安易に第六感に頼るというのは
非常に危険な行為でもありますし、
実は気付きというものにとって
最遠の選択肢なのです。
いつも違う現実を理解してみましょう。
理解出来る様に努力をしてみましょう。
毎秒毎分で違うのがよく分かりますよ。
そうすれば必ず気付けますからね。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は、良い事が恨みへと変わること
についてお話をしたいと思います。
良い事をしたのに逆に恨みを買ってしまう。
もしくは、買ってしまった。
そういう逆効果的な動きというのが
実際にあります。
どういう点で起きるのかと言うと、
相手の予測している期待値を
貴方が満たせていない事により
発生する事象です。
ですので、
「期待値の齟齬」
と、あにきは呼んでいます。
例えば、
貴方が相手さんからご飯屋さんを
教えてもらったとします。
で、後日実際に貴方がそこへ
足を運ぶんですが、
その時に行ってくる旨を
相手へ伝えたとしましょう。
そうすると、
相手には期待値が発生します。
そのお店のポイントとか
相手が教えてくれた点です。
それが期待値です。
その期待値に対して、
もし、貴方が答えられなかったり、
肝心な部分に気が付けなかったりすると
そこへ齟齬が発生します。
齟齬が発生すると、
相手の気概や器量にも左右されますが、
恨みを買う事に繋がります。
何とも理不尽な話であると思うでしょうが
これは日頃から当たり前に
起きている事象の一つです。
これを回避させるのは
貴方が気付く様に意識を強く保ったり
そもそも徒に期待をさせない為に、
事前に言わない伝えないという様な
工夫と言いますか、
テクニックで回避させる他ありません。
期待値の齟齬は至る所で発生します。
友人知人のみならず家族間でもそうですし
職場でもそうですし、どこでもです。
そして、
貴方が勝手に期待をして
齟齬が産まれる事もありますからね。
ですから、
人として大きくなる、大きくさせるために、
ボケっとしない。
話はちゃんと聞く。
日頃から縷々余計な事を言わない。
自分よりも相手を考えてみる。
よく視て、よく聞いて、よく考える
というのが必要となってくるのですよ。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は立ち位置について
お話をしたいと思います。
自分が何かの行動を起こす時は
スタンスを決める必要があります。
これは、情報を発信する場合に限らず
情報を受けて動く場合でも同義です。
ここをあやふやな状態としてしまうと、
いざ行動するという時に
大多数へ流されてしまう結果となります。
その多数が良とするものであれば
結構かも知れませんが、
烏兎怱怱とした中での判断となると
往々にして虚像を追ってしまうものです。
それでは困りますし、
やはり英断足り得たいところです。
恐怖に看過され振り撒く一因となるのか
あくまでも希望に満ちた安らぎを追うのか
滅するか生きるか
恐怖か希望か
誰しもが”それ”に関わる時が来ます。
そこで重要となってくるのが、
情報の精査です。
何を見聞きするにしても、
一体誰がどこへ向けての情報なのか
愛が目的なのか欲が目的なのか
一人一人が眼の奥を見据える
そんな時期になってきています。
あにきとしては
希望に満ちた安らぎに向けた情報を
一貫して発信しています。
不安が無いと言えば嘘になりますが、
それを覆うに値する裏打ちを
持っているからこその結論です。
さて、皆さんのスタンスは
どんな感じですか?
誤謬を犯さないのを祈る限りです。