2026年3月1日日曜日

広く視ろ!虐め談義2(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




人は誰でも一つや二つくらいは
問題を抱えています。
その問題のサイズが大きくなれば
なっていくほどに、

その部分のみにスポットを当てて
解決をしようと考えがちです。

ですが、その方法ですと
問題の一時的な解決は出来たとしても
恒久的な解決には至りません。

問題が発生して押し悩む中、
原因は何だったのだろうと思考します。

中には思考しようとしない人もいますが、
これは間違いなく思考した方が良いです。

原因の考察を行う際に、
問題とされる部分をスポットで捉えてしまうと
直近の部分や、見た目で際立つ部分のみに
焦点を当ててしまうので、

その奥に隠れている核心点には
辿り着けなくなってしまいます。

これは自身のみの問題でもそうですが、
対人関係や相手が存在する様な問題の場合ですと

問題そのものを解決させない様に
相手はブラフを流したりしてくるので
それに乗っかってしまったり、

陽動に引っ掛かってしまったりする
可能性が高くなるのです。
そうなってしまうと、
相手の思う壺となってしまいます。




虐めを例に挙げると比較的分かり易いです。
虐める人というのは、

自身が何をしているのかを
基本的には認識して虐めを実行します。
つまり、いけない事をしていると
理解しているのですね。

なので、問題の解決というのは
虐める側の優位性を無くす事を指しますから、
解決をさせない様に
ある事ない事をブラフとして流します。

ブラフというのは、
虚勢やハッタリやデマカセの意味です。

周りにいる第三者はこのブラフを
虚像として受け入れてしまいます。
特に善悪を強調されるとそれが嘘だとしても
人は信じ込んでしまうのです。

もし、ここで虐められている側が
助けようとしている存在も含めて
虐めを虐めのみとしてスポット的に
捉えてしまうと、

そのブラフに乗っかって対処をする事になります。
つまり、
近況で起きた事のみに目を向ける事になり
仮に相手に詰め寄ったとしても
その場その場の謝罪を求めるのみに留まるので、

ある意味では相手に次の攻撃の機会を
与えてしまう事に繋がります。

これが虐めを拡大化させる要因の一つであり、
第三者が中途半端に介入をして
状況を悪化させる流れです。




重要となってくるのは、
広域で捉える事です。

その場その時の動きはさして問題ではなく、
原因というのはその奥底に隠されています。

対象以外の排除、
自身と相手の過去への遡及、
事象に於ける時系列の集約、
そして、
現状の把握と直接的打撃や包囲口撃
もしくは、緊急避難となります。

1つ1つをスポットで捉えるのではなく、
広域広範囲の視点で捉えて
問題の解決へ向けて論理的に思考し
行動へ移さないと恒久的な解決へは結び付きません。

こういう相手というのは
とても卑怯でズルいから真意を黙って虐めるのです。
そこで善意という理想に縋ってしまうと
事態は悪化の一途を辿ります。

自身の安寧を揺るがす相手というのは
常識や教養の通じない相手に他ならないので

徹底的に対処する事が肝心です。
その最中で、自身の反省や回顧も必須となります。
これは円満化させる目的ではなく、

自身の将来に於けるトラウマの軽減へと
結び付けさせる為の反省と回顧です。

(残念ながらトラウマは無くなりません)

問題が生じた相手との円満化というのは、
特にその内容が酷くなればなるほど
それを求める方が野暮というものです。

視野は広く、視点は複数を常に意識する。

常に冷静に、常に忠実に。

日頃の実践がいざという時に役に立ちますからね。

本来の
スピリチュアルは
幻想への逃避でなく
現実を愉しくさせたり
豊かにさせるのが
主目的なんやで

2026年2月28日土曜日

本質を見出す視野(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




考えや動きがあって言葉は連動します。
そこに通ずる意味は
読んで字の如しなのですが、

本質的な意味となると
事後に考えなければ
理解へと繋がる事は皆無です。

「待つ」という言葉があります。

これを「動かない」「何もしない」と
捉える方が多いです。
言語的な意味合いとしてはその通りですからね。

しかし、
本来のスピリチュアルで述べると
そこの解釈は誤りで、

待つというのは
「動きの中の選択肢の一つ」であり、
「動いた後の業の一つ」となります。

何もしないのではなく
待機という名の「動き」の最中に居る状態です。

そして、
何かしらの動きを以った後での業であり
正に実行中である動きの一つなのですね。




動いていないという動き。

これを言葉通りに受け止めてしまうと、
今まさに自分が動いていると認識出来ずに

動きたいけど抑えているという
「抑制」へと思考が働いてしまいます。

すると、動きたいという願望や
待っていられないという欲求が強くなり
待たなくても良い様な理由や
身勝手な言い訳を思考し始めます。

こうして、己の中で自分本位が芽吹いていき
極短時間で「何の為」という目的を見失う。

同時に、待たなくていい為の手段を
目的とする事によって
自己正当化へと繋げてしまうのですね。

自己を正当化した後に待ち受けているのは
業の不履行による信頼の失墜のみです。
これが「自に堕ちる」状態であり、
「堕落」と言います。

常日頃から話している通り
考え方や動きは多元的に捉えるべきものです。
これはそのまま言葉にも当て嵌まります。

言葉というのは考えや動きを助長し
補完するものなのですから当然の形ですし、
その流れから会話という業へも繋がります。

意識の方向を「外側」へ向ける時に
多元的な視点を持つのであれば、

意識の方向を「内側」へ向ける際も
多元的な視点を心得なくてはなりません。

相互作用の存在を失念したその隙を
自分本位は突いてきますからね。

これを肌身で理解し
感じ取れる様に
なってくると
真面目ではなく
真摯に向き合うの意味が
スッと入る様に
なるんやで

2026年2月27日金曜日

カスプ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




色々な感覚があります。
種類を挙げ始めたらキリが無く
数多という言葉がしっくりくる程です。

今ここで述べている感覚というのは、
何も特殊な感覚の事ではなく

誰にでもどこにでもある
普通の感覚の事を意味しています。

歩いたり話したり触ったり嗅いだり
聞いたり見たり、
いつでもやっている当たり前の動き
ありきたりな仕草や行動。

この、いちいち考えもせずに
当たり前に動くからこそ

忘れてしまう「感覚」というのがある。

普段は全く意識をしていない
当たり前な動作に対して
ふと意識を向けてみると

思いもしなかった意外なものや
気付かされる様なことが
視えてくるものなのです。




本当は非常に特殊な動きであるのに
考えをせずともやれてしまうから

直ぐ傍にある感覚を失念してしまう。

どういう風に地に足を付け
どんな感じで大気を吸い込み
どこを使って声を発しているのか

何を思って物を掴み
何を意識して耳を傾け
何を考えて視線を向けるのか

当たり前を当たり前だと
認識しているが故の楽、

やれてしまうからこその思考停止。

意識を向けずに薄ら惚けていても
動けてしまうその瞬間に

自分にとっての一番近い「外側」と
一番遠い「内側」が存在するのです。

そして、その尖点が自身の動きそのものです。

そこに非常に尊く代え難い
最初の「感覚」が鎮座しているのですね。

ここに自身で気付く事が出来れば、

それまでの表面上の感覚とは違って
奥行きや深さ高さ、広さなどの立体感が湧き出て
視聴きする土台が変化します。

五感の先の感覚を養いたいのであれば
気持ちの良い幻想へ目を向けるのではなく

まずは尖点を意識して
気が付ける様にならないといけませんよ。

近過ぎるから
分からないのではなく
気付こうとしないから
視えないし
聴こえないし
分からないんやで

2026年2月23日月曜日

OUTER GOOD(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




人や物、仕事や商売、
そして、その能力に至るまで
困惑させられるのが、

「見極め方」です。

俗欲が原動力でもあり温床でもある
この現世の中に居ると

黙っていても俗欲に俗欲で返すという
流れが出来上がってしまっています。

これ自体は否定もする必要も無ければ
徒に嫌悪する必要もありません。

誰しもがその流れの中に居て
その循環の中に居るからこそ
想いという他の面に気が付く事が出来る
「きっかけを得る」事が可能となるのですから。

だからこそ、
見極める時に失敗をするのも事実です。

自身が何かの選択をする際に、
相手の何を視ているのかを考えてみると
見極め方は意外なほど簡単に分かります。

ってかさ、
もう既に何度も教えてるんだけどね。




大枠で云うと、ポイントは二つです。

1:
善い面と駄目な面の両方を伝えているか。

2:
どこの誰を向いて話をしているか。

この二点だけです。

1の場合は、相互関係性の話です。
善い面があるという事は、駄目な面もあります。
所謂「メリットとリスク」ですね。

例えば、スーパーでの割引シール
安いというメリットの反面、
日持ちしないというリスクがあります。

そのリスクを認識出来れば
メリットの方が強くなるというだけの話です。

リスクの認識を怠れば
ただのゴミとして終わるだけですね。

ここまではどこでも話していますし、
言われなくても分かるでしょう。
では、常識や忖度という思考が絡んでくると
どうでしょうか。

こういうのは医療系や治療系、
スピ系などに多く存在します。

スピ系で云うと、
運気アップの事ばかりを話して
そこに確実に存在する反対側の事を話さない。

運気アップの反対側は運気ダウンですが
厳密にはそこではなくて
その人の内面改善の苦痛です。

運気アップというのは
何かをするだけでアップするのではなくて
対象者自身の中身を善くするから
アップするという流れになります。

但し、それにはかなりの苦痛を伴います。

簡単に話すのであれば、

今まで散々楽をしてきたのだから
楽をしないという自身にとっては過酷な状態に
自分からならないといけない。

それが不可能であれば、運気ダウンとなる。

その苦痛の話を一切しないで
善くなる善くなるアップする
みたいな事ばかりを言うのはおかしいでしょ。

ですが、一般常識や通念的なものでいうと
そんなの一言も話していない人が多いですよね。




辛いものは見たくないし、聞きたくない。
もっと手軽で楽に善くなるものがいい。

探す側がそういう俗欲的な思考で居るから、
リスクを説明するまともな相手は
寧ろ、変人扱いをされてしまう。

何なら、一方的に叩かれて終わります。
多勢に無勢というやつです。
それを理解しているから
本物は可能な限り表に出てくる事は無い。

早い話が、しっかりとメリット&リスクの
理解すらも出来ない様なバカを
相手にする暇は無いと
ちゃんと認識しているのですよ。

これはスピ系に限らず、他の業種業界でも
みんな同じ事です。

外面ばかりの善を標榜しているのは
そのバカを相手にしているという事。
そんな程度の存在が、
相手を思い遣る訳が無いでしょ。

だから、皆さんはその反対側を
視れば良いだけの話なのですよ。
そうすれば、見極めというのは
普通に出来るようになる。

そして、
その反対側を視ない様にしていたのは
誰でも無い自分自身だという事にも
気が付くでしょうからね。

つまり、自分はバカだったと。

外なる善に
躍らされている内は
内なる悪に
埋もれていく
駄目だったのは
単に自分がバカだったと
認めるかどうかなんやで

2026年2月20日金曜日

同じ様に視えても(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




生活の中で色々な仕事があります。
売り手さんが居て買い手さんが居る。

買い手さんからすれば
一円でも安い物が欲しいと
考えるものだとされていますが、

果たして
そう言い切れるものでしょうか。

心理効果としては
確かにその通りなのは事実です。
安いもの安いものと目が動きます。

ですが、そこばかりに寄与していると
安く見えてて実は高価なものを
掴まされてしまう確率が高くなります。

特にスピリチュアルや運勢運気などを
標榜する商品や仕事に関しては
こういった点がかなり見受けられます。

人や物を通じて、
目に見えない部分の上昇効果を狙う

それがスピリチュアルと呼ばれる科目の
最たる部分であり、
それが故に些末な内容だったとしても
商売として成り立ってしまう。




表面上の内容はどれも同じに見えます。

セッションと言えばセッションですし
除霊と言えば除霊ですし
パワーストーンと言えばパワーストーンですし
カードと言えばカードです。

しかし、この同じに見える中にも
確実に品質(クオリティ)という
概念は存在していて、
歴然とした差が生じています。

敢えてスピリチュアル関連に
絞った話をしますが、

高い能力を保持していたり
高い品質を維持している場合、
支持をする数とは比例をしません。

高能力高品質の場合、
世間に知られていなかったり
世間から知られない様にしていたり
最低限の宣伝に留めていたり

数に物を言わせるSNSの様な内容とは
全く以て一致しないのが現実です。

つまり、
「フォロワー多数=信頼や本物」
の原理が絶対に成立しないという事です。

売り手さん側の立場からすれば
致命的欠陥の様に思えてしまう事ですが、
現実的に考えればその答えは明々白々で

何かと云うと、

「本当に善いものは
矢鱈滅多に他人には教えたくない」




この思考が働くからです。

独り占めをしたいという心理ではなく
売り手さんに対する買い手さんの
「敬意」に外なりません。

買い手さんが
誰でも良いから紹介したいとか
教えたいと考えるのは、

売り手さんへのリスペクトよりも
買い手さん自身の評判を誇示したいからです。

だが、
売り手さんの品質が特S級を越えた場合
もしくは、越えている場合のみ

その買い手さんの思考が融解し
売り手さんへの全面的な敬意へと進化します。

「たくさん紹介したい」
という自己顕示欲求ではなくて、

売り手さんに迷惑を掛けたくないから
「変な人は紹介したくない」と、いう

思い遣りを軸とした思考となるのですね。

また、買い手さんから率先して
売り手さんの保持する指針(コンセプト)や
本質(エッセンス)を理解する努力をしたり
理解する様になります。

こういった状態となるので、
雑多な多数の裏打ちよりも
有意義な個別の価値の方が大きくなるのです。

不用意な宣伝や喧伝をせずとも、

本物と呼ばれる存在は表舞台に出て来ない、
一見さんがアクセスしようにもを困難を極める、
超長期間の永きに渡ってその役目を果たせる

と云った理由の一つがこれなのですね。

買い手さん側もこういった側面を理解する事が
よりお買い物が愉しくなる点ですし、

品質を最重要視する売り手さんが
理解しないといけない機序なのですよ。

本物が志すべきは多的思考ではなく
個的思考ですからね。

本物だとそれだけで
狭き門になる
それも重要な価値の
1つだと理解して
数に頼らない努力を
すれば良いだけなんやで

2026年2月18日水曜日

能力の誇示は無能の証(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




経験を積んだ先に与えるものがあります。
ここでの経験とは

自らが率先して動いた内容もあれば
意にそぐわない形での内容もありますし
当事者ではない内容もあります。

そして、全てが全て
誇らしい経験とは言い難いです。

例え誇らしくなくても
恥じた事だったとしても

そういった経験を隠すのではなく
教え伝える事が出来るかどうか。

誇らしい体験や経験というのは
誰もが尾鰭を付けてでも話したがります。

それが遠い過去の話だろうが
自身の事で無かったとしても
さも、自分の事の様に

相手に対して優位性を誇示した形で
話しますよね。

しかし、そういった内容の話には
全くと言っていい程価値はありません。
話したところで、
得るのも念だけに留まります。




人に何かを教える上で
本当に大切になってくるのは、
なるべくなら言いたくない経験や
言わずに済ませたい様な話です。

自己の優位性を求めるのではなく
相手に勇気を与えてあげる為に話す。

何事も上には上が居るように
下には下が存在します。

この世の春を迎えている
状態だとしても
この世の終わりだと感じている
常態だとしても

その人が突端という事は殆どありません。
何故ならば、
真の意味で端に居る存在と云うのは
そんな事すら考えないからです。

自分本位を着飾って
独りよがりになり果てる

そういう云わば中途半端な状態だと
自身が突端だと思い込むのですね。
大抵の場合は、その手のタイプの人は
経験値が浅いです。

経験が乏しいが故に
直ぐ突端だと思い込む訳ですから、
圧倒的な経験値を元手として
その現実を教えてあげる事が大切なのです。




そして、
その人にとっての重要な情報は
必ずしもその場で全てを
与えるものではありません。

注意すべき点は
「順を追う」ということ。

教える立場にある以上は
相手のその先が視えている状態を指します。
視えているから全てを伝えるのではなく、

視えているからこそ
その場で端的な解答を出してあげる。

ここでの解答は口にする事が全てではなく
敢えて何も言わないという選択もあります。

また、
正答を伝える事で惨めな先となるならば、
自身を悪者にされようとも
覚悟を以って逆の事を話すのも然りです。

そういった覚悟が出来ないのであれば
教える側の立場にはならない方が善い。

人を、相手を想うということや
相手のために動くという事は
こういう覚悟の下で成り立つものなのです。

いい子ちゃんで
居たいなら
ええかっこしいを
したいなら
教える側には
立たん方がええで
身を滅ぼすだけや

2026年2月15日日曜日

六時の方向上空60度(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




物事を思考し動く際に
ニュートラルという概念が
非常に重要となってきます。

どちらにも属さないのではなく
どちらも理解する様にする。

ここでの注意点は、
完全に分かる必要はないという点。
理解する努力が必要なだけです。

その上で、「違う」と断ずれば
別にそれで結構。

何も、常に真ん中に居る事が
ニュートラルではありません。
そして、良いとこ取りでもありません。

その時々の最適解を手にして実行する。




これだけ聞くと良いとこ取りだと
思うかも知れませんが、
それは「最適解=良い」と
自動解釈しているからです。

誰もそんな事は言っていません。
あくまでも最適解であって、
それに対し皆が良しとするものではない。

その時の自身の状況や状態に於いての

誰のための解答なのか
何のための選択なのか

ここが重要となってきます。
なので、決して善しとはなりません。
痛みを伴う事もあれば、
断腸の想いとなることだってある。

善し悪しという一元的で単細胞な判別ではなく
全体を見通して多元的な視点で判別をする。
さしずめ、
自身を核に据えた球体のイメージです。

このニュートラルの概念を実践していくと
話をしながらでもリアルタイムで
あるイメージが出来る様になっていきます。

自身の後方上空より周りを見渡す
というイメージです。

一元的に捉えずに
重力の井戸から
自身を解放する
肉体は無理でも
幽体なら可能
どちらも
自分自身なんやで

2026年2月8日日曜日

アイアンマウンテン(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




小さい幸せと同様に
「小さい念」が存在します。

小さい恨みとも言えますし
小さい悪意とも言えます。

小さい幸せが自身の努力によって
気付けたり得たりするものに対し、

小さい念というのは、
個々人が勝手に発してしまうものです。
別に努力の様な触媒は必要がない。

どんな場面に於いても
勝手に出てきてしまうので、
努力が必要とするならば発した後になります。

周りから飛んできた小さい念を
受け流したりする為の努力や技術は
確かに必要ですしまだ分かりますが、

小さい念を自身から発動させずに
抑え込んだり消したり
などと云うのは困難を極めます。
ほぼ無理とも云える動きです。

何故なら、小さい念の発生要件が
自身の感情に依存しているからです。




自身の感情に依存しているという事は
抑えたり消すとなると、

「感情そのものをどうにかする」

と、いう事になります。
確かに一定量の感情の制御は可能ですが、
全般的な制御となると話は別です。

それは人間を辞める
と、言っても過言ではない動きです。

ましてや、小さい念が発生する感情は
喜怒哀楽の全てです。
怒りや哀しみの様な俗に言う
「消極的な感情」の部分だけではないのです。

喜びなどの「積極的な感情」で
どうして小さい念が発生するのか
意味が分からないと思いますが、

小さい念の発生場所は貴方だけに限らない。

と、云えば
身に覚えが湧いてくる筈です。

人の喜びを
素直に共感出来る存在ばかりではない。
疎ましく思ったり妬んだり
羨んだり嫉んだり。

つまり、小さい念を発動させずに
消すとなると喜怒哀楽の感情全てを
消去するに近い形で抑えなければいけない。

という意味になるのです。
それはもはや人間とは言い難いですし、
生の人間には不可能な動きです。




小さい幸せと同様に小さい念も
累積によって大きい念へと変貌します。
大きい念になると見える形で災いが発生する。

これを「厄」と言います。

厄を回避する為に人は様々な動きをしますが、
基本的にはどの厄払いもその事実のみに
目を当てるだけで、原因には言及しません。

そして、外からの部分のみに焦点を当てるので
内から発する部分は些末な方法で終わる。

よく言いますよね、笑顔を絶やさずにとかって。

以前も話しましたが、笑顔と云うのは
適切な場でのみ効果を発揮するものです。
常に喜ぶ様にしたところで、
周りの念を消せるものではないのです。

本当に小さい念をどうにかしたいのであれば、
それを自身も常に発しているのだと認める事。

自分はやっていない。やらない。
出さない様にしよう。ではなくて、

人なのだから出ちまうものは仕方ない。
その分、想いの形とも云うべき
小さい幸せに気が付こう見付けよう。

この動きに持っていかないといけません。

想念と言って、想いと念は表裏一体です。
累積した念を相殺するには想いしかないのです。

世に出回っている片側だけにメリットデメリットを
見出す様な動きや、勧善懲悪から完璧主義へと
帰結させようする動きは
何処まで行っても机上の空論に過ぎません。

ですので、常にニュートラルに立ち
両側を視て理解し認識する事自体が重要なのだと、
本来のスピリチュアルでは教えている訳です。

一元的ではなく
多元的に捉える
善悪は手段であり
目的ではない
正義の味方も
敵からすれば
悪の権化なんやで

2026年2月7日土曜日

無知を知り小粒を集める(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




本当の幸せというのは小さいものです。
この「小さい幸せ」が
集まりに集まった時、

大きい幸せへと変化します。

大きい幸せを最初から望んでも
決して得られないのはこの為です。

そして、小さい幸せは
自分以外には基本的に無価値です。
大きい幸せも、やはり同じです。

仮に共感が出来たとしても、
その度合いは個体によって差があります。
限りなく近しい場合もあれば、
最低限度の共感で終わる場合もある。

元々の個体が同じではないのだから、
これが普通です。
同じ様に感動や歓喜を得たい
という事自体がナンセンスなのですね。

ならばこそ、
自身の度合いを理解する事で
相手の度合いを講じる事が可能となります。

と、これが小さい幸せの話で
色んな所で話していますね。




では、その小粒な幸せというのは、
実際にどういったものなのか。
自己完結するものも多々ありますが、

原則として、
何かしらの「相手」が絡む事によって
得る事が出来たものが、
本当の意味での「小さい幸せ」となります。

それはリアルタイムの時もありますし、
数日数ヶ月数年という時間差の場合もある。

相手が絡むとは、想いを紡ぐこと。
つまり、「思い遣り」の事です。

ですから、その場だけを意識していても
小さい幸せは得られません。
例え、
その時が辛く苦難に満ちていたとしても、

哀しい時間が長く嵩んでいたとしても
思い遣りを礎として信に徹した動きをすれば
そこに小さい幸せは生じます。

小さい幸せはとても小さいです。

風が吹けば散って、
雨が降れば流れてしまう
そこいらにある埃の様に小さい。




その小さくて脆い幸せに
目を向けられる様に視野と視点を養う。

善い事ばかりを考えるのではなく、
その逆を理解する方へ努める。

例えば、
自分が痛みを知らなければ、
相手の痛みもその本質も
痛さを解消した時の歓喜も分からない。

それと同様に、
想いを知りたい得たいのであれば
念から逃げずに理解し、認めなければ
知り得る事は叶わないのですね。

小さい幸せはそこら中に点在しています。
けれど、視る為や得る為には
「小さい念」の存在を認める。

視野や視点を養うには、
この「念への理解と認知」が鍵なのです。
また、念は自分も常に発するものです。

他者からだけのものではない。
自分は発していない、発さないではなく

発しまくっている事を認める理解する。

そういうものだから気を付ける。
その努力をする。

善い事ばかりを思考しても
その善い事は相手によって変わります。
貴方の善い事は貴方にしか通用しない。

それを通用させる様にしたり、
伝わる様に教える様にするには
通用しない事実を認めるしかないのです。

善幸帰悪に陥る事無く、念を視る。

そうすると、視野は拡縮自在となり
視点も動体自在となるのです。

この視野と視点の動きが「素直さ度」。

認めざる者が素直ではなくなっていくのは、
このメカニズムに沿っていないからなのですよ。

分かろうとして
読むのではなく
分からないのを
素直に認めて読む
あら不思議
もっと知りたくなるで

2026年2月3日火曜日

脱肥大化(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




きつい事や辛い事、
殊更、自分自身が
やらかしてしまった時など
意識の方向は内側へと傾きます。

自分本位の発動です。

そうなってしまうと
外界の情報を遮断してしまうので、

自身の中では
同じ情報が更新をされずに
単一のまま巡り繰り返されます。

この繰返しの中では積極性思考よりも
消極性思考の優先度が上がります。

繰返し過程での思考内の事実は
最新の内容へと更新が出来ませんから、

「事実」から「想像」へと
変化していきます。

そこでは、消極性思考が積極性思考より
優先される状態となっていますから、

「想像」へと変化した内容に
自分本位の要素である、
「都合の良い解釈」が加わります。

すると、想像は完全に自己完結する
異形となりますので「妄想」へと変わります。

この妄想への変化を
「肥大化」と言います。

意識の方向を認識していない状態で
肥大化を起こしてしまうと
自己解決は非常に困難なものとなります。

内側へ向き過ぎた意識を
外側へと向ける為には、

少なからず外界の協力が必要になります。
つまり、「周りの協力が必須」という事です。

ここで述べている「周り」とは、
人限定ではなく「存在」を指します。




動物かも知れませんし、植物かも知れません。
自然霊や補助霊などを始めとした
視えない存在かも知れません。

それら「周りの存在」の協力を経た上で、
意識の方向が外側へと向く事が出来れば
肥大化から脱する事が可能となります。

人で気が付ければ一番早いですが、
必ずしもそこに協力者が居るとも限りませんし
塞込んで人をシャットアウトしている
場合も多々あります。

そうなってしまった際に、
その他の存在が手助けをしてくれます。
動きやイメージ、音、縷々様々な方法で。

その些細な変化や動態に気が付ければ
意識が外側へ向くきっかけとなって、
脱肥大化が始まります。

これが「最速最短の事後」です。

肥大化は誰にでも起こりますし、
決して気分の善いものでもありません。

そして、脱肥大化をする為には、
多かれ少なかれ「気付き」が必要です。
自身が気が付こうにも、
気が付く為には感覚の手触りが必要です。

これが「五感の強化」です。

その感覚というのは、
普段から使ってその手触りを認識していないと
使おうと思って使えるものでもありません。

なので、日頃から五感を研ぎ澄まして
感覚を養う事が鍵となってくるのですね。

五感を軽視するのは
気付きを得る上で
本当に愚の骨頂
事実は動きを経て
事後となり
それは五感で
感じ取るんやで