2026年1月11日日曜日

褒めたら負け(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




褒めるという業はとても大切です。
周りに対してもですし、
自分に対してもです。

褒めるに値する動きをしたなら
ちゃんと褒める。
これまでも、
そうやって教えてきていますが、

この褒めるという業を
何でもかんでも褒めれば良いと
思っている人が居るのも事実です。

先にも触れましたが、
褒めるに値する動きをしたのであれば
褒めるというだけで、

特段それに該当するものでもないのに

「良くなりたい」とか
「(自分が)褒められたい」とか
「良く思われたい」など

努力もしていない上に不純な動機で
褒めたところで、そこには何一つ
プラスの効果など生じません。

如何せん同期の段階が「念」ですからね。




先述したのは褒める側の話ですが、
受け手側にも気を付けるべき点がありまして。

褒められたいが為の動きを
してしまう人が居ます。

例えばですが、

子供が何かをした時に
「こんだけやったよ」みたいな事を
言ってきますよね。

あれと同じ様な事をやる人の話を
今ここで話しています。

子供でしたら、
そりゃ余程御門違いな事でなければ褒めます。
ですが、今は大人の話です。

そんな承認欲求剥きだしで来る人を
褒めてしまったら、
褒めた人の負けになります。

ここでの負けとは、

「相手のためにならない事をした」

という意味です。

そもそも論で、そこまで承認欲求を
振りかざして来る人というのは、
その先の事を何一つ考えていないので
褒めたら最後、ほぼ確実に調子に乗ります。

また、褒められたいという点が
目的となってしまっているので、

その先に繋げる事自体が出来なくなる。
つまり、褒められるも何も
それは単なる通過点であり、

「手段」であって「目的」ではないのです。

例えば、
これだけ自分は頑張ったとか
わざわざ「自分」で言ってくる人など
褒めなくて良いんです。

それよりも、褒めずに次へ繋げるための
経過観察と指導が必要になります。

どういう動きをするのか。
不貞腐れるのか、努力をするのか。

貴方が視るべきポイントはそこであり、
受け言葉に買い言葉で条件反射的に
褒めてあげる事ではないのですね。

想像以上に多いですからね、
褒めてほしくて仕方がない
いい歳をした「大きなオトモダチ」は。

相手のためを
考えるなら
やる勇気と
やらない勇気を
きちんと使い分け
せなあかんで

2026年1月10日土曜日

良かれやらかし(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




良かれと思って何かの動きを執った際に
自分の思っていた事とは
真反対の結果となってしまった。

と、いう経験があると思います。

何も学ばない人は、
こういった動きをした時、
一体自分の何が駄目だったのかを考えずに

「自分は悪くない」
「良い事をしたのに」
「悪気はない」

と、云う様な
「言い訳」を主軸に考えます。
それ故に、物事の本質へは届かないので
同じ過ちを繰り返すのです。

反して、事実を学べる人は、
こういった動きをした時

「自分が何を目的に動いていたのか」
「誰のために動いていたのか」
「動くに至った根拠は何か」

と、云う様な
「意識の方向」を主軸に考えます。
それ故に、
口先では「相手のため」と言いながらも

その実では、自分の俗欲や自尊心を
満たすためだけに動いていたという
「行動の本質」へと辿り着くので、

同じ過ちを繰り返さないための
対策を練る方向へと舵を切ります。




どんなに善い事だと自分が思っていても
ちゃんと相手の目線に立たなければ、
ただの迷惑であり
余計なお世話に過ぎません。

その行動原理は先述した通り
意識の方向が内側へと
向き過ぎている為に起こる

俗欲の表現型です。
承認欲求や自己顕示欲ですね。

また、単に俗欲の制御が効かずに
自分本位依存となってしまっている
という様なケースもあります。

この場合ですと、

「自分の考える事は正しいに違いない」
「自分の考える事と皆同じに違いない」

と、云った具合の思考形成となる上、
自身が執った行動は「思い遣り」であると
信じて已まない状態ですので、

仮に正論と呼ばれる促しを行っても
逆に激高したり、話そのものに対して
一切聞く耳を持たなくなります。




どうしてこの様な事が起こるのか。

自分本位に依存しているが故の結果
ではあるのですが、

「思い遣り」という業に対する
認識違いが原因と捉えます。

自分本位依存状態となると、
思い遣りというのは

「(相手に)先んじて行うもの」

と、いう認識となります。

例えば、

相手がやる前に
自分がやってあげるのだから
相手はやらなくて良いわけだし
喜ぶに違いない

であり、意思に関しても

「自分の意思=相手の意思」

という形となります。

ですが、本来のスピリチュアルに於ける
思い遣りというのは

「相手を尊重した上での自身の行為」

でしかありませんから、
「自分の意思≠相手の意思」であると
理解して勝手な行動は慎みます。

つまり、自身が動く事による
相手へ与える影響度合いの「予測」が
思い遣りの根幹であるのだと認識しますので、

必ずしも「先んじた行為」とは
ならないのですね。

もし、貴方が「良かれやらかし」を
してしまいがちならば
一旦立ち止まれる様にする為に、

何をする時でも自身の行動は
「誰のため」「何のため」であるのかを、
常に考える様に努力して下さい。

遠回りで面倒に思えるかも知れませんが、
これが一番効果的です。
何故なら、

その時に止まろうと思っても
止まれないから
やらかしている訳ですし。

悪癖を矯正するには
より強力な癖で上書きする方法が
特効薬なのですよ。


根本的な変更を
していかないと
その先には
進めないんや
急がば回れやで

2026年1月6日火曜日

理解する努力(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人の話をよく聴く。

人との会話をする時
人から何かを教わる時

よく聴くという基本的な所作が
とても大切になってくるのですが、
「よく聴く」を実践しながら若しくは
実践した後に行う

「よく考える」

という所作も忘れてはいけません。

人の話を聴いている時、聴いたあと、

理解する努力をするのか
理解したと自分に言い聞かせるのか

「よく考える」という業は、
ここで差が視えます。

理解したと自分に言い聞かせてしまう人は
「言語的な理解」と「本質的な理解」を
一緒くたに捉えてしまう癖があります。

例えば、何かを教えてもらった際に、

「分かりました」
または
「分かります」「確かに」

と、条件反射的な反応で
答えてしまう事が多いです。

これとは別に
理解する努力が出来る人は、

言語的な理解と「本質的な理解」を
分けて考える伝える事が出来ます。

どういう事かと言うと
例えば、何かを教えてもらった際に

「分かりました」
ではなくて

「言葉については分かりました。
ですが、内容については分かりません。」

みたいな感じで、何が分かっていて
何が分からないのかという様な
修飾を口に出して上手に使います。




本来、話をしている最中ましてや
何かを教示してもらっている時というのは、
原則として自身の知らない事や

自身の中で不明瞭な部分の解説となります。
つまり、言葉や知識の海を
処女航海している様なものです。

早い話が未知でよく分からない状態。

けれども、話している言語は理解が出来る。
皆さんは日本人だから日本語話者でしょ。

日本語で話をしてもらっているのですから
そこで使われている「言葉」は
多かれ少なかれ即時理解が出来ますよね。

これが「言語的な理解」です。

この言語的な理解と、
話の本質的な理解というのを
その場でイコールとさせるには、
土台となるそれ相応の知識が必要です。

つまり、知らぬ状態の話を聴きながら
本質まで理解を示すのは
現実的にほぼ無理という事なのです。

但し、その補完材料として話者による
話し方や解説の上手さが存在します。

この場合、それを理解していて
相手のためを考えてくれる話者であれば
思考停止を防ぐ為に、

「今の今、理解しなくても大丈夫ですよ」
「分からなかったら質問をどうぞ」

みたいな事を、必ず諭してくれます。




これら上述した両者の差となるのが、

「想念のベクトル」であり
「意識の方向」です。

意識の方向が自身に向いていれば

「認められたい」
「負けたくない」

などの、承認欲求や自己顕示欲の類が
強く出てしまうので、

「理解をしたと
自分へ言い聞かせる動き」をします。

同時に思考停止もしますし、
分かりもしないのに背伸びした結果
自ら質問をする機会すら手離す事になります。

反対に、意識の方向が相手に向いていれば、

「ちゃんと答えたい」
「もっと詳しく知りたい」
「もっと教えてほしい」

と云った具合に、
自身が今相手と何をしているのか
その行為に対して真摯に向き合って
粗相の起きない様な心情を働かせます。

要は、相手目線を仮想した共感を求めるので、
細かく丁寧な言い回しをする様になるのです。

この様に、問答一つで
相手や自身の「意識の方向」をチェックする。

「何が」分かっていて
「何が」分からないのか

会話という日頃の業に直結する所作の中で
互いに見極めたり、気付いたり、
気付かせてあげる事が出来るのが
本来のスピリチュアルであり、

そして、
あくまでも現実的で実戦型である
と、云うのも忘れてはいけません。

不意に出る言葉は
ある種での楽やで。
楽に溺れるのが
どういう意味かを
思い返して
考えてみてや。

2026年1月3日土曜日

自分を取るか相手を取るか(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人に何かを話す際に単語の羅列で
済まそうとしてしまう人が居ます。

先月投稿したこの記事でも
触れましたが、

内容の説明を端折りつつ
それっぽい話をする。

適切簡潔に伝えるという
ビジネス会話を連想しがちですが、

実際はそうではなくて
単に説明をしていないだけであり
内容については話していないので
中身がありません。

何故その手の話し方をしてしまうのか。

内容の理解をするよりも
自分を理解してほしいという"願望"が
より強く出てしまうからです。

そして、
物事には相互作用が発生しますので
話すと同時に、聞くという動きが生じます。

つまり、内容の説明を端折る人は、

「相手の話をしっかりと聞けない」

という相互性も生まれます。

簡潔に済ませてほしい
手早く終わらせてほしい
要点だけ教えてほしい

ざっくり言うとこういった具合です。

また、自分の意見以外は認めたくない、
意に反する話や、非を認めたくない場合は

物理的に聞きたくないという行為を
無理矢理発動させる事もあります。

これを「遮断」と、言います。

話す場合にしろ聞く場合にしろ、
自分本位が軸となってしまうと
こういった流れの動き方となります。




これらの動きが指し示すのは、
「会話」という重要な業を
自身から放棄しているという点です。

自分からも言わなければ
相手の話も聞かない聞けない。

どちらにも共通しているのが

「自分の事だけは認めてほしい」
「理解してほしい」

という俗欲です。

同じ様な意味合いで、褒め言葉も存在します。
具体的に内容を褒めるのではなく

「賞賛する単語のみを羅列する」

という話し方です。

「何がどうでこういう点が素敵なものを
ありがとうございます。」

ではなくて、

「素敵なものをありがとうございます。」

所謂取って付けた感じの定型文ですね。
ビジネス的な意味合いですとか
簡易な挨拶文でしたら罷り通りますが、

自身の中で脚を向けられない程の
相手さんとかには決して使えないものです。

これを平気で多用してしまうのも、
自分本位が軸となってしまっている人に
よくある話し方です。

その上でこのタイプの人はこう言います、

「褒めたのに理解してもらえなかった」

当然ですね。
200%300%理解などされません。
説明を怠っている訳ですから。
逆ギレも甚だしい限りです。




思い遣りという単語の常習使用が
多いというのも特徴の一つです。

思い遣りというのは、
単語を発して示すものではなくて

動きで表わす「業」そのものです。

単語を発している内は、
思い遣り自体を発動はさせていません。

何故ならば、
言わずして自然に行う事が
本来あるべき思い遣りだからです。

言葉にして行うのは
思い遣りではなく「恩売り」です。

また、相手を基礎として行うのが
思い遣りなのですが、
それを自身を基礎として行うが故に、
こういった単語の羅列が発生するのですね。

つまりは、
自分本位が軸となっている形です。

周りのため相手のためという
本来のスピリチュアルに於ける
基本的概念を軸にした考え方や動き方を
日頃から行っていると凄まじく疲れますが、

上述してきた動き方を目にした際に、
非常に大きな違和感を覚えます。

これが「見極め」であり
対外的な「気付き」の一つです。

隠そうとすれば
するほどに
視えてしまうのが
本性なんやで