皆さんこんばんは、あにきです^^
さて、前回の続きです。
俗的な物事を望まないにしても、
一体何をどうすれば良いのか?
というお話です。
まず、根本的な事なのですが、
俗的な物事を望んでも意味ないよ!
と言うと、それじゃやっぱり
聖人君子みたく振る舞ったり、
それを目指せばいいんですね!
と、考えてしまう人が結構いるんですが、
それは大いに間違っています。
何故か?
聖人君子みたいな生き方なんて
絶対に無理だし、
何も考えてない証拠でもある。
ぶっちゃけ現実的ではないですもんね?
そもそも、そうやって考える事自体が
大間違いで、要は人間らしくすることが
振る舞うことがとても重要になってくるのね。
人間らしくってのは、
ちゃんと意識して感情を持って生活して、
成功もすれば失敗もする。
その中で、反省をして次に活かす努力をする。
これがここで言うところの人間らしさ。
あれもダメ、これもダメとか、
そういうんじゃないんですね。
そして、その過程で少しでも物事に気が付く様に、
常に意識して生活をする。
ただボケーッと過ごすのではなくて、
色々と意識をするんです。
これが気付きへの近道であり、
気付きを増やすための第一歩になります。
では、実際に意識って何を?
という事なんですが、
これは全てにおいての話になるので、
ちょっと難しいんだけど、ことは単純で、
普段無意識で行っている事を
無意識でしなければいい。
意味が分からないよね?^^;
なので、意識するという意味を知る事ができる
とても簡単な方法を一つ教えます。
それは呼吸です。
完全に無意識で行っているよね。呼吸。
これを意識してやってみるんです。
息を止めて苦しくなって吸うんでも良いし、
全部吐き出してから吸うんでも良い。
この時は、呼吸を全力で意識していますよね?
普段は何も考えないはずなのに。
そして、この時に一体何を得たのか?
を、考えるんです。
ただ、苦しみから楽になっただけじゃなくて、
どういう風に身体が機能して、
何を身体に入れているのか?
どうして、こんなに苦しかったのか?
なんで、直ぐに楽になったのか?
(色々な理由を考えて...)
息が出来るのって幸せなのかも…
という部分まで考えられるかられないか?
当たり前に享受している幸せに気付けるか
気付けないか?
と、ここまでの過程そのもの、
事象そのものが気付きから小さい幸せまでの
一例です。
こんなの幸せになんか入らない!
全く意味が分からない!
あほらしい。。。
くだらない…
と、考えてしまった方もいると
思うんですけど、
それ、呼吸器疾患の方とかの前で言えますか?
同じ様に思えますか?
人工呼吸器を付けてる人の前で言えますか?
ここで罪悪感や情けなさを感じたり、
反省したりするところまでが、
ここでいう気付き。
普段自分がどれほど無意識で動いていたのか?
ちょっとは意識した方が良いのかもと、
次に活かそうと決断して行動するのが、
ここでいう反省。
ひょっとしたら、こんな事でも無意識なんだから、
普段の会話とか触れ合いとか、人付き合いとか
子育てとか、
色々な面で無意識だったのかも知れない…
ちょっと見直してみよう…
と、考える事がここでいう懺悔。
それらの先で、新たに気が付く何かがあった時、
見付けることが出来た事こそが、
ここでいう小さい幸せ。
これをあらゆる局面で繰り返して積んでいく。
だから、聖人君子なんてふざけたことを
考えるよりも、自分を信じて相手を信じて
思いやりの心、優しさ、愛情を身につける事が
とても大切になってくるんです。
そして、また新しい何かに気が付いていく。
このループを目指していく事こそが、
本当の意味での
私達が実際にやらなきゃならない事なんですね。
皆さんこんばんは、あにきです^^
さて、前回の終わりに
小さい幸せも大きい幸せも
どうして俗的な物事ではないのか?
というのを投げかけたので、
続きを書いていこうかと思います。
そもそもが、ここで書いている幸せとは
この世の基準での話ではなくて
向こうの世界の理を基準としています。
向こうの世界の理というのは、
基本的に気持ち、想い、念、思念、
どれらも同じ意味ですが、これがベースとなり
そこに喜怒哀楽の感情が加わります。
つまり、すごく簡単に言うと、
気持ちを中心に分かり合える社会を
構築しているのが、向こうの世界。
んで、そこを完璧なものとさせるためには、
苦境の中での気持ちの変遷を経験して、
そこから気持ちの繋がりを覚えていかないと
ダメなんですね。
その苦境の中っていうのが、この世のこと。
何が苦境かというと、
単純に肉体があるってことです。
(色々と端折りますが...)
肉の身体があるが故に、俗的な思考や
価値観が生み出されていく。
その中で気持ちも当然に変化していく。
気持ちよりも物的なもの。
見えない物よりも物質的なもの。
本来あるべき流れと優先させるべき事が、
肉の身体と俗的な物事によって染まった
自我によって盲目になっていく。
(超簡易的説明だけど)これが苦境の概念で、
そこから如何に気持ちという点に
結びつけていくか?気付けるようになるか?
自我に打ち勝つ事が出来るか?
思い遣る心を持つことが出来るか?
何を学んで、何を得られるか?
というのを、意識せずとも
個々人が一生懸命にやってる訳です。
だからこそ、しあわせという概念も
気持ちがベースとなるのだから、
俗的な物事たり得ない訳なんです。
にも関わらず、俗的な物事を望んで
そこに一時の幸福感を得ようとするのは、
向こうの世界の基準からすれば
ナンセンス以外の何物でもないし、
無意味で無価値なことなんですね。
なので、俗的な物事でのご利益を望んでも
小さい幸せに気付くことなんか出来ないし、
その先にある大きい幸せになんて、
気付けなくて当然って意味なんですね。
では、実際に何をしていけば良いの?
って話になるんですけども、
これはまた次で...
皆さんこんばんは、あにきです^^
前回までの気付きシリーズでは、
小さい幸せについて解説しました。
今回は予告通り、大きい幸せについて
お話をしてみたいと思います。
さて、皆さんは大きい幸せって
何だと思いますか?
まぁ、人によって様々だと思いますけど、
ここで言う大きい幸せってのは、
出来事の大きさではなくて、
その人にとって、とても重要な物事!
っていう、事象そのものなんですね。
ですから、内容やサイズはその人によって、
様々です。
自分の人生にとって非常に重要な何か。
人かも知れないし、目標目的かも知れない。
気持ちかも知れないし、
単に考え方かも知れない。
けれど、小さい幸せに気が付いて
それを積み重ねていかないと見えてこない事象。
おまけにそこまで出来たとしても
それに100%気が付くとは限らない。
せっかく大きい幸せのとこまで辿り着いても、
気が付かないで終わってしまう人も多いんです。
これが大きい幸せの正体。
答えになっていないと言われてしまうかも
知れませんが、ここではこれ以上の
説明が難しいんですね。
まぁ、一般的に喜ばれるであろう
宝くじが当たった!!!
みたいなやつは、ここでの大きい幸せには
まーったく該当しませんので
ご理解下さいませね^^
詳しく知りたい方は、カウンセリングでも
レクチャー時でも、聞いてくれれば
もっと噛み砕いてお話しますんで(ヽ´ω`)
あ、ちなみになんですが、
同じ話をしてみたら、魂の格(霊格)の
高い人ほど理解率が良かったです。
セルフ霊格チェックに使えますね(ゲス顔)
とまぁ、ここまで書いたので
薄々感付いている人もいると思いますが、
俗的な物事のご利益を望んで
先日話した小さい幸せに気付こうとしたり
実行しようとしても、
何も上手くいきません。
それどころか、むしろ逆効果となります。
気を付けましょうね(´ε` )
どうして俗的な物事ではないのか?
ここについてはまた次回に。。。
皆さんこんばんは、あにきです^^
今回は、前回の記事で出てきた
小さい幸せについてお話をしたいと思います。
小さい幸せってのは、
普段の生活の中で感じる本当に小さな出来事。
例えば、
鉢植えの花が咲いた!
不思議な雲を視ることが出来た!
ご飯が上手に作れた!
時間に間に合うように動けた!
しっかりと眠れた!
などなど、本当に小さい出来事で得られる
幸福感の事です。
その幸福感を如何に得るようにするか?
分かるように行動出来るか?
つまり、気付けるか?ってことなんです。
それらが出来てくると、
自然と色んなものに目がいくようになる。
その中で、ちょっとした良い事を
したくなってくるんです。
例えば、
自分の仕事ではないけど、ゴミを拾った。
玄関や建物の入り口で、次の人が
入りやすい様に靴を揃えた。
お店の人が片付けてくれるけど、
忙しそうだからこっちで片付けてあげた。
などなど、誰に見られる訳でもない、
人に知られる事もないだろう
本当に小さくて目に映らない様な良い事。
それらの業(行い)そのものに幸福感を
得るようになってくるんです。
これが、本質的な意味での小さい幸せ。
こういった人の目に映らない
褒めてもらうことを目的としない良い事を、
【陰徳(いんとく)】といいます。
同じ内容でも、口に出して自分がやったと
アピールをした場合は、【陽徳(ようとく)】
と呼びます。
しあわせを望む点で肝になってくるのは、
【 陰徳を積む 】という点です。
これがたくさん積み重なって、
大きい幸せが寄ってくる。廻ってくる。
業が巡り巡って回り回ってくることを
【 回向(えこう) 】と呼びます。
どんな事でもそうですが、
全ては巡り合わせなんですね。
ここまで書くと何となく視えてくると
思うんですが、しあわせを得る為には
最初のステップとして【気付き】というのが
分からないと先に進めないんです。
小さな出来事に気付く事が出来ると、
その先の行動で良い事をするようになる。
それが積み重なっていくと、
大きな幸せが得られるようになっていく。
これは私の仕事じゃない。
誰かに任せればそれでいい。
別に雲は雲、たまたまそう視えただけ。
放っておいても花は咲く。
ただ食べられればいい。
作り方を知ってれば誰でも作れる。
いつもしっかり眠れているし。
という様な感謝も無ければ、
自分勝手で利己的な考え方や、
ただの偶然という無思考的な捉え方、
自分がやったから褒めてほしいという
承認欲求剥き出しの動き方では、
大きな幸せなんて寄って来ないんです。
では、大きな幸せってのは何?
って話なんですが、それはまた次回に...
皆さんこんばんは、あにきです^^
誰しもが幸せを望んでいると思いますが、
そのサイズはまちまちです。
おそらくですけど、ほとんどの人が
大きい幸せを望んでいるんじゃないかと
思うんですよ。
こうやって書くと、悪いことなのか?って
思っちゃいますよね^^;
全然悪いことじゃないんで大丈夫です。
ただ、どうせ望むのならば、
大きい幸せを望むよりも
小さい幸せをたくさん見付けられる様に
行動した方が何倍も好転しますよ!
どうしてかって?
だってさ、大きい幸せってのは、
小さい幸せに幾つ気が付いたのか?
幾つ手にすることができたのか?
どれだけ気付けたか?
その為に何をしてきたか?
ってのが、ポイントになるんですから。
皆さんこんばんは、あにきです^^
さて、今回はみんな大好き
言霊シリーズです。
そろそろもう少し上級になっても
皆さんなら付いてこれるよね!!!
と、勝手に考えたので書いてみますね。
(付いてこれなくても書きますw)
言霊は言葉に乗った想い(念)というのは
さすがにご理解して頂いてると思いますが、
言霊は片道切符なんですかね?
言う方だけに乗るんですかね?
どう思いますか?
答えはイエスでありノー。
確かに言霊は言う方に乗ります。
でも、聞く方で使うことも可能なんですね。
例えば、ネガティブな言葉を
AさんがBさんへ発したとします。
そのままを受け取ればBさんはショックを
受けるだけで終わってしまいますが、
ここでBさんがこのAさんの言葉を
ちゃんと解釈して、返答もしくは間違いを
訂正してあげることで、
例えネガティブな言霊でも善い言霊に
変換させることが出来ます。
これを【 言返(ことがえ) 】または、
【 霊返(たまがえ) 】と言います。
言葉というのは一方通行でもあり、
相互作用を伴う共同行為でもあります。
これは言霊とて同様で、話し手も居れば
聞き手もいる。
どちらかの思惑一つで変わるものでもあり、
お互いが作用させてマイナスをプラスに
変換させることも可能なんですね。
どんな人でも話し手や伝える側の事を
念頭に置いてる言霊については言及したり
使用したり利用したりしているんですが、
どういう訳か、聞き手側に立った言霊の事を
念頭に置いた話って無いんですよね。
対話や会話ってのは、
壁に向かって話してるんじゃないんだから、
相手一つで全てが変わります。
例えそれが自分1人だったとしても、
自分が聞き手にもなりうるのが言霊。
悪い言霊を発したら、善い言霊で返す。
(逆も然り)
これを1人で、もしくは、相手が居ても、
自分で悪かったと思ったから、その人に
善い言霊を返したり、また、別の人へ向かって
善い言霊を伝えることを、
【 言替(ことがえ) 】と言います。
話し手さんが悪い言霊を発して、
聞き手さんがその言霊を正す、直す、
還る、変える事によって逆の効果にすることを
【 言返(ことがえ) 】と言います。
これが、以前にお話をした善い言霊でも
悪くなっちゃう事もあるよ!
というやつの詳しい内容なんですね。
人としての本質の部分です。
人も霊も対話と会話が基本です。
この概念は変わりません。
それが直接の言葉だろうが文字だろうが、
イメージだろうが何だろうが、
絶対的に変わらない本質です。
それであるならば、
言霊だけが一方通行限定ってのは
どう考えてもおかしいですよね。
そう思いませんか?
向こうの世界の理の中に、
【伝に務める】というのがあります。
これは、意思を伝える努力をする
という意味でもありますが、同時に
意思を汲み取る努力をする
という意味でもあります。
向こうの世界の理に明確に示されている
ものなのだから、その伝の最たる言霊が
話し手に全てを委ねている訳がないんですね。
話し手も聞き手も重要になる。
だから、相手を思い遣ることが必要になる。
どちらも真面目に捉えないといけない。
ちゃんと話して、ちゃんと聞き取る。
本当の意味での言霊の力を引き出すには
ここを確実に覚えておかないと
全くと言っていい程、意味がないんですよ。
せっかくの言霊も力が出なけりゃ
疲れるだけです。
というのを念頭に置いて
今までの言霊シリーズを読むと、
言霊に関する考え方がもっとアクティブに
なって、運気もアップすると思いますよ^^
皆さんこんばんは、あにきです^^
全国各地にパワースポットがありますけど、
実はそのパワースポット自体が
既に負の念に侵蝕されてしまっている!
なんて、所があったりします。
そういう場所の共通点もあるにはあるんですが、
地形とか見た目とか、
そういうんじゃないんですね。
何かというと、
【 念の抜けどころが無い場所 】です。
今まで見てきた場所だと、例えば…
ちゃんと管理されていないお寺や神社。
こう書くと人が常駐していないって
イメージかと思いますが、そうではなくて、
人が居ても仕事をちゃんとしていないというか、
テキトーかましているっていうか、
要は、なまぐさな所ね。
あとは、きれいな天然水が汲めるとことか。
そもそもが、どういう成り行きで
負の念に侵蝕されてしまったのか?
パワースポットって、結局のところ
強いエネルギー?が欲しかったり、
祈願をしに行ったりってのが多いでしょ?
これって善い念だけど、
それと同時に、
負の念でもあるって事なんですね。
善くなりたい!って欲求でもあるんですから。
そんな念が、わんさか来ても
管理者さんがちゃんとお仕事してくれていたり、
その場に座してる霊的な存在の方々が
清浄化してくれていたりと、
頑張ってくれてるのが所謂パワースポットです。
逆に、仕事を疎かにしていたり、
結果として吹き溜まりみたくなって、
そもそも霊的な存在が居なくなっていたり、
逆に霊的な存在(悪意)が居たりすると、
皆さんの持ってきた念がそこで滞るから、
どんどんと濁っていって、悪化する。
これが侵蝕の正体です。
私は謙虚さを忘れていません!
という方が多い事を望みますが、
中にはガツガツと低俗な欲を剥き出しにして
品性もなく仕来りもなく、パワースポットを
巡っている人がいるのも事実なのを
忘れてはいけません。色んな人がいるんです。
そういう侵蝕されてる所って、何ていうか
いやに静かなんですよ。
っていうか、気配が無いんです。。。
清浄で平気な所は、結構賑やかで
森でもどこでも賑やかなんです。
もちろん、ここでの話は人間がって
意味じゃないですよ。
本当に善い所ってのは、
色々と話しかけてきたり、遊んできたり
ちょっかい出してきたりするから、
ほんとに賑やかなんですね。
(物理的には静かでもね…)
では、何か見抜く方法はあるのかい?!
って、話なんですけども、
実はあります。
しかも、以前にここで教えています。
丸腰でお化けシリーズの3作目↓
↑ここの最初で書いた、
【感覚の分析】ってのがとても役に立ちます。
みんなが良いと言っているから善い場所!
とか、有名だから善い場所!
みたいな先入観を取っ払って、
そこへ脚を踏み入れる前に、
ご自分の感覚に目を向けてみて下さい。
耳を傾けてみて下さい。
そこで、違和感を覚えたらそれ以上先へ
進まなければ良いし、特になければ
ガンガン行けばいいし。
これが誰でも出来る判別の仕方ですね。
善い場所へ行ったはずなのに、
とんでもないのを貰ってきちゃった…
なんてのは嫌ですもんね!
(実は結構よくある事っていう(汗))
いくらパワースポットって言っても
万人に善いなんてのは有り得ません。
何でもそうですけど、
合う合わないってのがあるもんです(´ε` )
どんな時でも人に流されないで、
己を信じる努力をしていると、
善いことだって起きやすくなるし、
当然に運気だって上がりやすくなります。
せっかくパワースポットに行くのであれば
そういう点は注意したいものですね。
ま、ちゃんとやればやるほど、
「パワースポット巡り」は
出来なくなるんですけどもw
あ、そうそう!
ちゃんと努力するとね、
自分だけのパワースポットを
見付けられるようになりますよ^^
皆さんこんばんは、あにきです^^
さて、今回は生霊についてです。
そもそも生霊って何かご存知ですか?
よく言われているのは、
強い念 だと、思うんですけど、
それでは半分しか当たってないです。
正しくは、
『相手の気持ちはお構いなしで、
一方的に自分の想いをぶつけてきて、
尚且つ、霊体として出現させ、
肉体的にも精神的にも被害を出す現象』
を、生霊と言います。
つまり、自己中な念ですね。
お互いが信用していたり、
相思相愛の仲だったりとかで、
仮に、そこへ出てきたりするのは生霊とは
言いません、ただのリア充です。
爆発して下さい。
そして、
生霊には基本的に意識はありません。
本体にもその出現させている意識はないです。
但し、出現させてしまうと、
いくつか症状が出てきます。
主だったものは次の様な感じです。
【 不幸を自慢する 】
私と居ると不幸になるよ。
私を敵にすると死ぬよ。
などと言って怖がらせるんですが、
表情はとても笑顔^^
その上、人一倍霊感が強いとか、
実際には違うのにその手の自慢もしてきます。
但し、知識は乏しいです。
説明を求めても、ちゃんとした事は
話せないという共通点があります。
(自己憐憫・自己研鑽・自意識過剰)
【 心が腐っている 】
助けて欲しいと言ってくるわりには、
実際に助けようとすると拒否します。
また、自分の心を開くのが嫌なので、
本心を見抜かれると、どんな理由でも
逆ギレします。
【 目の奥が暗い(黒い) 】
黒目の奥の色なのですが、
一般の方と比べると、とても黒くて暗いです。
これは、カラコンをしていても分かります。
生霊として出現するということは、
お化け(悪霊)と同じ事をしているので、
容姿にも同じ特徴が出てきてしまいます。
【 悪口を言う 】
人の悪口を人一倍話します。
にも関わらず、その時の言葉遣いが
やたらと丁寧だったりする妙な癖があります。
同様に告げ口も得意です。
陰口も好きです。
また、自分で自分の悪口を言うのも好きです。
(自己嫌悪・承認欲求)
【 肩(や腕)を痛がる 】
生霊として出現をさせてしまうと、
ご自分の幽体に影響が出てきます。
なので、慢性的に幽体がズレてしまって、
腕や肩に痛みや強烈なコリが出てきます。
同じ様に痺れも持続します。
それが数年間続いたりするのも特徴です。
また、病院や民間医療を行っても、
一向に回復はしません。
これは、生霊として形を成した反作用で、
憑依された時に出る霊障と似た症状です。
生霊とは、ご自分がご自分へ憑依する
事でもあるので、こういった霊障が発症します。
ちなみに、通常の幽体のズレですと、
痛みが出るのは本当に稀です。
出たとしても、結構自分で治すことが出来ます。
(自己憑依)
【 贈り物が好き 】
頼んでもいないのに、
やたらと贈り物が好きです。
大して仲良くも無いのに誕生日プレゼントを
毎年用意してきたり、
渡すことに意義を覚えているから、
相手の気持ちはお構いなしです。
なので、感謝はされません。
(自己満足・自己顕示欲・承認欲求)
生霊として出現させてしまった人は、
人からの信用を失ったり、
同じ穴の狢に囲まれたり、
それを延々と繰り返して色々と大変になりますが、
本当に大変なのは人生を全うした後です。
どうしてなのか?
イイところ(浄土)に行くのは、
かなりの確率で無理だからです。
そうなると魂の格を下げる事になるので、
次の人生はもっとハードになります。
(どういう風にハードになるのかは、
詳しくは書けませんが、一言で表すと
更に格を下げたくなる様な人生になるんです。)
そうならない為にも、
常日頃から相手の事を意識して、
人がいる事を考えて、謙虚さを忘れずに過ごす事が
大切になってくるんですね。